[海彦] 書き殴り未完草稿 時折改稿 Aug26.2007
癌の発症
嗄声(させい)
始めに声がかすれ、風邪を引いたかな?くらいに思って市販の風薬を飲んで一月ほど経ってしまった。それでも声のかすれが直らないのでかかりつけの医者に行き、喉の痰を切る薬を処方してもらって、更に一月が経っていた。それでも改善せず専門病院で検査を医者に勧められた。、掛かりつけの医者からの紹介は耳鼻咽頭科の部長宛てでありわざわざその部長の往診日に予約して行ったのではあったが、生憎その部長は休みで若い女医が診察をしてくれた。 彼女は如何にも利発な清潔感溢れる成り立てのと言った感じの女性であった。鼻から麻酔薬を吹きつけ、細い管のファイバースコープを鼻から喉に差し込むのだが、彼女はすぐさまモニター 付きのカメラでもう一度見るので部屋を移るように言い、同時に隣室の若い男性の医師を呼んで一緒にモニターを見た。モニターに映し出された拡大された画像は右側の声帯が白く腫れていた。腫瘍があるとの事。CT検査日や生検の為の検査入院の日などを事務的にその日に決めた。 喉のCT検査が10日後、生検が一月後と随分間が空く。『ヘビースモーカーだったのが今出たのですね』などと言いながら家族にがん患者があるかなどと聞かれ、癌なのかと聞くと、そんれを調べる為に検査すると言う。心臓から上の部位の癌は進行が早く危ないと聞いているが 検査に間が空くが手遅れになってしまわないのかと問うと、カメラで見たところそんなにいきなり変化するようなものではないと言い。その若い女医師はただ 軽く笑みを返し、同じく付き添いの若い看護婦も微笑むだけだった。。そんな彼女達の清潔な明るさに心が和んで救われる思いがした。自分の父も母も癌だし、母の家族は7人みな癌だったので遂に自分にもその時が来たのかと漠然と思 うだけだった。そう言えば一年ぐらい前から喉仏が中心より少し右に寄っていることが、顔を洗うときに鏡を見て漠然と思ったりしていたが、さして気にも留めなかったが、それが前兆であったのならもうかなり進行してしまっているはずだった。 それに数年前肝臓の超音波とMRI検査でピンポン球くらいの腫瘍が見つかり、精密検査を勧められたが、そこまで大きいならもう助からないと思って放っておいたが、それが転移して出来たものであったなら到底助からないだろう。"死ぬのかな"深刻な実感は無いもののもしかしたら、イヤ多分早いかもしれないっとだけ思った。恐怖心は未だ無かった。多分未だ確実に癌と宣告されたわけでは無いせいかも知れない。 それにしても何人もの友人が癌で亡くなっている。日本での病死の一位に癌がなっていると言う事が身をもって実感できるとは。今では信じられない様な出来事であるのだが幼稚園生の頃から何年も一列に並ばされ幾度とも無くDDTを頭からかけられていたし、農業も高収穫を目指して殺虫剤や化学肥料を無原則に大量使用し始めたし、食品添加物も保存の便のみ考慮されてあらゆる食品に使用されだした。住宅建材、日用雑貨、全てが効率化のみ考慮されて、環境だの副作用だのが喧伝され考慮され始めたのは公害被害が幾度と無く繰り返された後の近年であって、我々の年代は時既に遅しなのであろう。10年も前に禁煙して、バランスの良い健康食と毎日適度な運動をこなした優良生活を続けて来たのが馬鹿馬鹿しく思えてならなかった。もうレイジーに生きて、食いたい物を目ー一杯食ってやろうと思った。
CT
ベットに横になると高校生みたいな若い看護婦さんが造影剤を静脈注射して、撮影中は頭を動かさない様にして下さいと言う。アメリカで治療を受けた時 、危険事項認知と不可抗力に因る事故への免責の事前承諾書が20ページ程署名させられたが、その時と比べれば危険なことが万一起きても承諾する旨の 同意書類は全くと言って良いほど少ないかった。ただ造影剤に対するアレルギー反応が起きたら参るなと漠然と一抹の不安が脳裏を過ぎる。MRIと違って瞬時に終わった。念のため画像のコピーをお願いして置く。結果は一週間後である。
検査から一週間後、喉のCT検査の結果を聞きに行った。若い女医はCT画像を見せながら、『CTではリンパ節や周辺への転移は見られませんでした。』画像で見る限り進行している癌は見当たらないと言う。幸いリンパ節にも癌の 兆候は無いと言う。結局現在の時点での診断は何かと尋ねると、『白板症』だと言う。ヘビースモーカーに良くあるもので前癌症状の場合があるので生検"Biopsy"をすると言う。そう、 未だ判決は下りないのだ、、、。家に戻って早速ネットで白板症を調べてみる。 そして一応癌だった場合に備えて喉頭癌の治療法や病院を調べておく。喉頭癌の初期段階、ことに声帯を温存して会話へのダメージを極力抑える為、放射線治療と抗癌剤治療を併用するのが一般的であると あった。放射線治療も重粒子放射線治療、定位放射線治療、サイバーナイフ等癌だけを攻撃する方法が近年発達して各種病院に備えられつつあった。しかし、放射線医、放射線技師、放射線看護士が常勤しているかというと、 病院によって可也ばらつきがあるようだ。生憎今度の病院にはこうした先端機器が備えられては居らず、更にスタッフも放射線技師しかいない。放射線医が居ないで放射線技師が施術するのであろう。病院や医者を選択するのも運なのかもしれない。始めに乗った電車が間違っていたら何処で下りて、次にどんな電車に乗るかが一苦労である。幸い私は運の良い方であった。ネットで病院を調べると何処の病院も問題山積であった。先ず 絶対的な看護婦不足があるが、それ以前に慢性的に医師不足であった。大学病院はインターン生を徒弟制度的に無料奉仕を強いて仕事量をこなしており、他の病院も出身校からの派遣医師、パート医 師に多くを依存している。朝から晩まで働き詰めで、勉強も大変、仕事も大変な割には報酬が見合わない気がする。このままでは医療の荒廃も真実味を増して来る。総合病院を幾つも作るより、各 種の専門病院を一つづつ地域毎に作りスペシャリストを養成して個別のニーズに対処した方が学閥も排除でき有為な医師を多く育てる意味においても、また患者に対しても より専門的に卓越した治療が受けられ良いのじゃないか思ったりもするが。
ラリンゴマイクロサージュリー
手術は全身麻酔で喉に大き目の管を通し、そこからマイクロスコープを入れて医師が患部を直視しながら患部の細胞を摘出するという。昨晩9時から水分も何も取らず、今日は朝から手術衣に着替えて午後一の手術に備えた。手術室までは 自分で歩いて行くと言う。何度も色々な手術を受けたが自分で歩いて手術室に行くのは始めてである。人手不足なのだろうか。そんな思いがしたが別に歩けない訳ではないからマー良いかっと付き添いの看護婦さんと手術室に向かう。
執刀医は丸刈りで30代半ばの如何にも仕事師といった観の頼もしい男性医師だった。担当の女医もそばに立って居り、目で大丈夫だからっと言ってくれて居るように思え 気持ちが和む。『これから麻酔を掛けますからボーっとしてくると思います。』そう言う言葉を聴いた途端 点滴から冷たい液が注入され、その冷ややかな流れが腕に感じられ、直ぐに意識が薄らぎ、消えた。
死ヌコトは不思議に恐れなかった。
名前を呼ばれ、身体をゆすられ最初に感じたのは息苦しさと舌の激しい痛みだった。 手術台から病室用のベッドに移し代えられるのだろう、何人かで掛け声をかけ、身体を持ち上げて移し変えた感じがおぼろげに感じた。喉の中に丸太ん棒を突っ込まれたような痛みが感じられたかと思う間際、息が吸えない。 今何処に居るのだろうか?何も見えない、ただ幾ら息を吸っても息苦しさは去らず、 足掻くのではあるが、伝わらぬもどかしさ。別段さほどの恐怖は無かったが、兎に角 息苦しい。肺か心臓かがどうにかなってしまっているのか、看護婦は血中の酸素濃度を測る為私の人差し指に器具を挟む。『97%』酸素は十分なのに何故息苦しいのだろうか?このまま死んでしまうかもしれないと漠然と思った。鼻からの管をマスクに変えるか聞くので頷く。深くゆっくり深呼吸を続ける が楽にならない。血圧が147、、、看護婦が大急ぎで色々と測定を始める。、過呼吸による酸欠の時の様に、大きく目一杯ゆっくり吐き続けては深く吸い込む。懸命に幾度も繰り返し 疲れ切った思いが息苦しさを追いやった。やっと辺りの状況が目に見え始めた。しかし今度は頭が痛い。酸欠の時の様にズキズキとした頭痛が消えない。体温が上昇している。36,6度、手術前が34,5度であるから2度も高い。自律神経が狂っているのだろうか。気管支に痰と唾がたまってむせ返り、咳き込みそうになるのを、 若し咳をしてしまったら迎えなければならない痛みを想像して俄かに堪える。
"参ったなー“と言う気持ちが本当のところである。いきなり尿意を模様して看護婦さんに筆談で伝える。尿瓶を私のモノの下に差し入れ待ってくれている。 モノが小さくなっていてこぼれないか心配だった。前立腺肥大だから時間が掛かるからと書いて遠慮してもらった。それにしても うら若き女性にモノを支えてもらって用を足すなどとは真に申し訳ない気がした。 本当に看護婦さんには頭が下がる。皆綺麗で心和やかである。聞けば薄給である。生半可な仕事ではない仕事なのに何故高給で報いず、白衣の天使などと呼称して彼女たちに法外な奉仕を社会的にに強いるのだろうか?教師や消防士、警察官、共に社会貢献的な職業には社会が尊敬と高給を以って報いなければそのうち手痛いしっぺ返しを受けることになるだろう。現に教師の質が落ち、なり手が居なくなっており、教育の荒廃が喧伝され始めている。そんなことを思いながら尿瓶を 半分程も満たした。
鉗子で 余程強く挟んだのか、舌がやたら痛む。鏡で見たら下の厚さが倍に腫れ、赤い圧迫痕が大きく残っていて痺れと痛みがゴッチャになっていた。 点滴のカテーテルを左腕の側面に差込みテープで固定した。細い静脈に何の痛みも無く見事である。抗生物質が点滴される。終わると凝結防止剤を注入して栓をしておく。腕に巻いたバンドにバーコードが付いていてそのつど読み取り機で薬剤と本人を確認し、誤投与防止措置がとられている。 昔とは随分変わったものである。 しかし驚いたことにこうした安全対策も現場でのふとした善意の運用が思いがけないミスを生んでしまうのである。『明かりをつけて起こすと悪いから先にバーコードを読み取って置きますね』と言って、真夜中に点滴する抗生物質を事前に読み取り機でスキャンしてしまった。その薬剤の保管を間違えてしまったら、このシステムの盲点となってしまう。
一晩中隣室の詳細な音が聞こえて眠れない。この病院はガラスを多用したカーテンウォール構造の近代的な建築物なのだが、隣室との間仕切りの構造物を簡便にしてあり、まるで間仕切りなど 全く無い如くである。おそらく換気装置にも 各階の分離遮断装置や除菌フイルターなど設置しては居ないだろう。何処の病院へ行っても感染対策が非常に疎かである。 機能を優先させず見てくれだけの建築物をよくも設計できたものだと呆れてしまう。
術後の夕食はヨーグルトが出た。咳も出来ず、飲み込むのも痛い。非常な疲れが全身を覆う。
告知
細胞検査の結果は一週間後であった。執刀医が目の前の椅子に座り、担当医が立ちながら付きそって居る。入って行った時彼は軽く一瞥しただけで目の前のカルテに目を通したままで居たので、 検査結果が癌であった事が予想できた。担当医は如何にも真面目な無垢な感じの可愛らしい女医であったので、癌を 告げた後のこちらのリアクションを思いやってくれている様が解かり、そんなことで彼女の気を煩わせてしまいかえって申し訳ない思いすらする。『悪性腫瘍の細胞が2箇所で見つかりました。扁平上皮癌 SCC( Squamous cell carcinoma)です。』カルテに目を向けたまま静かにゆっくり 執刀医の彼が呟いた。『未だ初期なので放射線治療をすれば大丈夫です。週5回照射で、6週間、抗癌剤は必要ないと思います。』彼は ダイジョウブデスという言葉に力を入れてから初めて私を見、こちらの反応を探るかのように、『初期の場合ですので声帯を取ることも無いので話せるようになると思いますよ、大丈夫です よ。』と重ねた。 癌の告知はこの大丈夫が重要なのかもしれない。『此処には定位放射線治療機器が無いでしょ?ピンポイントの照射をしたいので他を紹介してください。』唐突に言ったので 彼は驚いたようにまじまじと私の顔を見た。癌の宣告に気を使ってやったのに、思いもよらぬ私の反撃に驚き、些か不機嫌そうな表情を見せた。『ある程度広範囲に照射した方が転移予防にもなるのですよ。』 と重ねて言う。『親父が下咽頭癌でやはり放射線治療をして、唾液が出なくなって、味もわからなくなり、更に火傷で酷い目に会ったので、先端機器のある病院でやりたい』旨主張し続けた。 紹介する医院を探しておくので明日また来てくれとわだかまり無く言う。
彼女は本当に真面目な医者だった。私はネットで調べた二つの病院の資料をコピーして持参したが、彼女も数件の資料をデスクの上に並べていた。その内の一つは癌センターで同じだった。サイバーナイフが若し私の癌に適用されるなら一番後遺症が少ないのでその機械のある病院に先ず行き、そこが駄目なら癌センターに行きたいので両方への紹介状をお願いしたら快く承諾してくれた。 カルテに添付された自分の声帯の写真を見せてもらった。白い棘が無数に表面を覆っていた。汚いカビが生えているような、兎に角嫌な感じの物体だった。癌という物を始めて目にした。 如何にも悪そうな、汚そうな物体だった。こいつが俺を蝕んでいるのだと思った。若し肝臓の固まりも癌であったなら確実にお陀仏だろうと思った。
サイバーナイフ治療への挑戦
TVでも良く紹介されている最先端の放射線治療器の一つで、アメリカのミサイル追尾技術を応用したピンポイント攻撃用の優れもので大いに期待してその病院に向かった。30分程受付で待つと名前を呼ばれ診察室に当された。スクリーンには私のCTフイルムが張られている。『残念ながら声帯は息を吸う度に動くのでこの機械は向きません。』30代の温厚な巨体の医師は申し訳なさそうに言った。彼はデスク上のモニターに色々な症例の写真を映し出してこのサイバーナイフの利点や適用症状を丁寧に説明してくれた。アメリカや香港では肺がんや前立腺がん当あらゆる部位の癌に適用されるのに日本では厚生省が首から上にしか施術を許可しないとの事で、その事も残念がっていた。何とも感じの良い医師で、彼は快く別の病院の放射線課に紹介状を書いてくれた。家に帰ってネットで病院のサイトをチェックする。初診は必ず紹介による事が全ての病院の必須要件となっており、紹介された病院は初診の予約は紹介医が直接予約を取って患者に知らせるシステムとなっていた。高度医療技術を備えた総合病院が地域の医院との分担と連携に拠って慢性的な混雑を解消して地域医療の向上を図ると言った政策なのだが、総合病院が多過ぎて専門化が均衡されておらず、患者の選択が非常に困難な気がした。情報ばかり多い割には選択に困難さがあって目的に辿り着くには困難を極める気がする。本当に自分の癌に適した良質の治療がいち早く受けられるのか全く疑問である。若し私がアクテイィブな人間でなかったらもっと困難であったろう。生憎今日は金曜なので月曜日に病院探しをする事にした。
病院の決定
最先端治療のサイバーナイフが自分の癌に不向きだと言われてしまい些か困惑したが、次に紹介された私大付属病院へ朝8時に出かけた。病院が始まるのが8時半からで完全予約制であったので、紹介状を持っても些か不安があったが兎に角出かけて半日でも待つ覚悟で行った。1時間程待たされた後に診察室に呼ばれた。やはり若い可憐な感じの愛らしい女医が座っていた。研修医なのだろうか。私が持参した紹介状を開いて見ながら今までの経過を聞いた。そして懇切丁寧に放射線治療とその副作用について 治療中及び治療後の症状を記した説明書を手渡し説明を始めた。 治療中ー皮膚にかゆみを伴う色素沈着、乾燥、剥離、。喉及び甲状腺ー食事がしみる、嚥下時の痛み、通過障害。稀に食道にも影響が及ぶ。治療後ー皮膚に色素沈着、稀に糜爛形成、皮膚の硬化。喉及び甲状腺ー嗄声、潰瘍形成、むくみ、甲状腺機能低下、軟骨壊死。まれに食道の潰瘍形成、嚥下困難。等々一通りの説明が終わると幾等か彼女より年配の如何にもしっかりした観のある女医が来て自己紹介をし、二人で担当すると言う。何か彼女の説明で分からなかった事やもっと聞きたい事があるか尋ね、説明事項を文書にして 診療内容説明書に署名を求められ、後にそのコピーをくれた。こうしたやり方は患者に安心感を与えてくれ信頼感が増すものである。『鼻からファイバースコープを入れて患部を見ますから』 と促されて場所を間仕切りの奥へ移った。一通りの診察や事務手続きが終わると放射線治療の下準備として顔を固定する為のマスクを作る為にCT室に行かされた。
放射線室と書かれた部屋に入るとCT装置があって、その機械の下のベッドに横になり、出来る限り喉を伸ばすように指示されCTを撮る。喉を出来る限り延ばして置く事は放射線が他に当たらない様にする為だという。 声帯を中心に5cmx5cmの範囲に左右から1Gy、計一日2Gyの単位の放射線を照射するという。土日を除いて毎日7週間35回、トータル70Gyの単位の放射線を照射して金曜日毎に経過を診察をすると言う。CTを撮ってから顔から胸にかけて温ためられたラバーシートを被せ、 数分後それは私の顔に合わせて固まり、私のマスクが作成された。黄色いメッシュの弾力性のあるマスクは映画のスパイダーマンみたいなやつで、コレをかぶって頭をベッドに固定して、毎回同じ所に放射線が照射されるようにするという。最大限の効果と最小限の副作用を意図 してのものという。私が死んだらこれが私のデスマスクとなるな、、、等と思ったりもした。
リニヤック[英]linear accelerator、LINAC
直線加速装置のこと。ライナック、リニアックともいう。体の外から放射線を照射し腫瘍の治療を行う装置。X線写真で用いているような放射線よりも何十倍も強力な放射線を身体の悪い部分(癌など)に照射する事によって小さくしたり、無くしてしまったりする装置
[同]直線加速装置、ライナック、リニアック
第一回目の放射線照射
8:30 から始まると言うのでそれに合わせ朝一番で行ったのに既に3人が放射線治療室の前のベンチに腰掛けていた。誰も挨拶をせず、目を見交わしもせず、無言で待っている。15分程して名前を呼ばれ第二放射線室と書いてあるドアを開けた。驚いた事にドアの先は部屋では無くいきなり細長い通路が5m程奥に延びており、その先の右手に部屋があって写真で見たその機械があった。脱ぎやすくする為カラーシャツを着てきたのだったがボタンを4っつ程外して少し胸をはだければそれで良いと言う。機械の下のベッドに頭の位置を枕に合わせて横になると若い方の技師が昨日作ったラバーマスクを私の顔に装着してマスクの淵に付いているフックで頭をベッドに固定する。『位置確認の為の写真を撮りますから暫くじっとしていて下さい。』喉を目一杯伸ばしたままなので幾等か緊張が手伝って歯が震えてしまう。落ち着かなければ!息をゆっくり深く吐いてから深呼吸をした。二人の技師が私の頭を少しいじって位置を微調整しては写真を撮る事を繰り返す。『では照射しますから動かないで下さい。』ピーっと言う音が20秒ほど続いた後照射アングルが変わってまた20秒照射が繰り返された。『ハイ、終わりです。確かに痛くも痒くもなかった。あっけ無く初めての照射は終わった。 さあ癌細胞と放射線との戦いの始まりである。後はヤガテ訪れる副作用を待ちそれに堪えるだけである。 どちらが先に参るかの勝負である。癌が反撃し始めたのか、何か疲れた感じがして単純に精を付けようと昼食に行き付けの店にうな丼を食べに行った。
夕食も放射線照射で死んで行く細胞の再生に高蛋白質の食事が良いかと思ってマグロのステーキにブロッコリーを添えてわかめの味噌汁とごはんをとる。気のせいか味噌汁が喉にしみる。鏡で喉を見ると既に喉仏の下の甲状腺が腫れて喉仏を中心に辺りと色が変わっていた。一、二週間後変化が来るとの説明だったが随分と早いものである。気のせいか何となくだるい。糖尿病の所為で抵抗力が低下しているのかもしれない。
何か気のせいなのだろうか、時折疲れ易さと頭痛を感じるだけで一週間が過ぎた。毎朝8時に家を出手病院には8時20分ころ着き診察カードを受付に出して治療室の前の長椅子に座って待っていると8時45分ころから名前を呼ばれて治療が始まる。上着とバッグを脱衣籠に入れて靴を脱いで治療台の枕の位置に合わせ上向きに横たわる。『肩の力を抜いて、』 専用のマスクを着けベットに固定されると声が照射操作室まで届かないので消しゴムほどの小さなナースコールを右手に手渡され静かにゆっくり呼吸を重ねる。放射線技師は手際よく流れるように確認作業を進め、あくまで丁寧である。週5回、全く正確に同じ作業を進めていた。習熟されたプロの作業を感じられ安心であった。
治療後は出来る限り旨い物を食べられる内に食べておこうと行きつけの色々な店を巡ることにした。何時もは必ず日本料理なら燗酒、西洋料理ならワインを注文するのだったがあまり飲めないのと暫く無沙汰をするだろうから、名残の意味でも喉頭癌を患っている事を告げた。店の主人は皆一様に驚くと共に『今は癌でも治りますから頑張ってください』と歓待してくれた。
旨い物は人を幸せにしてくれるものである。暫しの至福を満喫しつつ、何時ごろからか食べられなくなるのだろうっと漠然と迎えねばならない痛みを思うとその上手さは格別である。私は何時も行く店で上手くない時は黙って食べ、上手い時だけ褒めるようにしている。あまり酷いときは店のために言うがその他はこちらの体調や仕入れが外れたのだろうと思って黙って食べる。本当に不味いものを重ねたとしたら行かなければ良いだけであるからあまり店に注文を付ける事はしない。近頃はTVの料理番組の所為か客が薀蓄を述べ立て評論家化してしまい食べに来たのか評価しに来たのか分からなくなってしまっているような気がしてならない。この寒いさなか腰掛や暖を取る術も用意せず客をやたら店の外にこれ見よがしに並ばせて横柄な客あしらいで繁盛しているラーメン屋に好奇心で行ってみたが、あんなに臭くて脂っこいだけの不味い物に何故あんなに人が並ぶのか、評論家の味覚に呆れ果ててしまったことがあるが、旨い物が人を幸せにすると言う原点を忘れている気がする。
毎週金曜日は診察の日で照射の後ファイバースコープを鼻から入れ声帯を見てもらった。軽い頭痛と疲労感を伝えると放射線酔いと言うのがあって人によってはもっと強い吐き気等を催す場合があるという。一通り体調の問診答えて検査機の椅子に座りカメラの管を鼻から喉に通される時ゲーっとならないように噴霧器の麻酔剤を喉の奥深くまで吸い込む気持ちの用意をしていると担当医はただスコープの先の方数センチにゼリー状の物を少し塗布しただけで上手に喉の置くまでスコープの管を入れ私に深呼吸を促した。『良く動いているわ』放射線のダメージが軽微なのか、がん細胞のための硬直化が始まっていないのか分からないが何やら安心感があった。今日は血液検査をするという。検査用紙を渡されて採決室へ行くと人人の群れ、申し込み登録をして番号をもらい待つ事15分、何となく注射は嫌だったが一日100人ほど採血しているのかその熟練振りは確かでほんの少しチクリとしただけであった。患者からの感染の危険な作業を見事にこなす彼らにも有り難いものである。
頬が幾分こけた気がする。食欲は変わらず食事量も同じなのだが癌が養分を食っているのか放射線照射が作用して細胞が養分を吸収しにくくしているのか、放射線からのダメージを修復するのに大量の養分を消費しているのか定かではないが近頃平均して1kg程体重が減った。時々思うのだが癌とは、自分の細胞が食品添加物や殺虫剤、ニコチン等々環境阻害物質に対して適応する為の変異を試みているのだが、その細胞が自分自体の存続を図ろうとするあまりその集合組織体である私の肉体を破壊してしまうミスを犯しただけなのかもしれないと。もともと私は一個の細胞だったのだから、その細胞が生存持続への試行錯誤を繰り返し、今に適応して行く筈である。だから自己念力で彼らに適応を誤るなと言い続ければそれで足りるのではないか、自分の中に彼らに言う事を聞かせる力術は無いものかと問いかけてみたりする。
治療後昼食を取った後暫く休んでから毎日一時間程度近所を散歩するのが日課となった。放射線照射で肉体が外形的に衰えていく事を幾等かでも防げたらとも思って担当医に聞くと出来るなら何でも日常生活は変えることはないと言う。近隣の住宅街を通って市民公園の周りを散歩しているとやたら犬の散歩している人に出会う。彼らの殆どの人が小さなバッグやビニール袋を持っているのだが、『飼い犬の糞は飼い主が持ち帰り始末しましょう』の看板がやたら目立つ。10m置きに設置されている通り道さえある。確かにあちこちに犬の糞を見かける。犬好きなら犬を世話する事、そうした犬の糞を始末する事さえ好きな筈であろうが、一体この国はどうしてしまったのだろうか。あんな看板を1万個立てようが不道徳は改善されないであろう。現にあろうことか始末の仕度をしていたに関わらず幾人かの人が自分の犬がした糞を平気で放置して去っていった。『テメーの可愛い犬の糞ぐらい始末していけよ、犬嫌いの人間を増やしてしまうじゃないか!』と叫ばない自分、嘗て異国人が日本に来てその礼儀正しさに一様に驚いていた日本人の公序良俗は費えていくのだろうか。犬の糞の看板と同時に同じく目立つ不振な人を見たら通報を等の防犯の看板である。地域は空き巣がやたら多く公園には痴漢さえ出るという。更に公園の周りの道路にはスーパーの買い物袋、ペットボトル、菓子袋が捨てられているのを良く見かける。近所に小中学校が在る所為なのだろうか分からないが毎週課外授業でごみ拾いや犬の糞の片づけを小中学生にやらせればそれが公衆道徳を身に付けさせる事になり、更に家庭内に子供の口から公序を話す機会になって地域の良俗の実現に寄与するのではないかと思うのだが、今時の若い親は子供のごみ拾いや、犬の糞の片付け奉仕授業等大反対するのかもしれない。10年も前にニュージーランドのクライストチャーチに行ったが、ある町の一画の全ての家が沢山の花々で飾られていた。聞けば町を美しくする運動として常に花を飾る事を各家庭が競って居ると言う。そしてその事は副次的に犯罪の無い町につながっていると言う。確かに美しく沢山の花々で飾られた家に泥棒に入る気持ちにはなりにくいのかもしれないと思った。清潔な美しい町並みは見る人を和ませ犯罪を予防する力と成り得るだろう。
3連休の後昨日から何となく喉に食物が触る感じがしていたが今日で10回目の照射。日本海側が低気圧で大荒れの天気の所為か照射の副作用か頭痛と時折の目まいとで、何やらやたら光りが眩しく感じられベッドで横になり目を閉じていたら2時間ほど眠ってしまった。昨日辺りから食物が喉につかえる。普通の食物が 喉に引っかかって一旦停滞する感じがして意図的に咀嚼を念入り重ねて飲み物と共に押し流すようにする。そろそろ普通食が駄目に成って来たのかも知れなかった。旨い物が楽しめなくなる事は参るなっとこの先の事が思いやられた。先輩が電話をくれて自身の闘病記を語ってくれた。可也進行していたS状結腸と肝臓癌が2年前に見つかり、結腸と胆嚢、肝臓の50%を摘出した後、混合抗癌剤治療を受けたに関わらず7ヶ月後に肝臓に癌が再発し、ラジオ波で焼去し、現在抗癌剤TC443を服用との事。副作用の為胃もたれと手足の痺れを感じるとの事だった。癌になったのも、主治医に巡り会ったのも全て運命と達観して自分の主治医に命を預け、手術も化学療法も主治医の判断に全て従っているとの事である。確かに素人判断であれやこれや迷うことなく主治医に任せるべきなのかもしれないが、 良い出会いが在れば良いのだが不幸にして出会いが悪いと散々な目に会ってしまうからそれもやはり運である。私は確かに今回恵まれている。ネットで様々な癌患者の記した物を読むと悲惨な人も少なくないようである のだから。
長椅子に腰掛けて放射線治療の順番を待つ患者達は一様に皆無口で唯無言のままに目を瞑り頭を垂れている。己に圧し掛かる死の影の重さに抗いきれずか、それともひしひしと襲い来る傷みに耐えて瞑目するのか、それとも亦”目を開けて思うこと無し亦目を瞑る"なのだろうか。灰色の廊下に白い壁、濃いグレーのビニールをかぶった長椅子の味気なさが、癌患者の人生を象徴するかのようでうなだれざるを得ないのかとも思える。もっとホテルのロビーや街中の喫茶店の中の様な明るい色使いや快適な空間を演出する事は出来ないのかと思えてならなかった。また診察の日が来た。12日目の金曜日、未だ工程の3分の1である。血液検査の結果はいたって良好、腫瘍マーカーの数値も全く問題ないという。肝機能もコレステロールも正常値であった。放射線治療が何か効いたのかもしれないと冗談めかしで言うと、放射線ショックで体がビックリして好転したのかもと笑って言う。以前肝臓にピンポン球くらいの塊が発見されたままであると申告してあったので一応肝臓のCTを撮ってくれると言い、造影剤の副作用の承諾書にサインを求められた。しかし予約は満杯の為1ヶ月後であった。診察の医師は喉を覗いて声帯に放射線で焼けた痕跡が見られるようになったという。食物がヒッカカリ出したと告げたのだが、未だ喉はその兆候が目視出来ないと言う。それでいて昨日今日の喉の感触という事はこの先もっと酷くなるであろう事が思やられて”参ったなー”っという感じがした。硬いものを飲み込むと喉を傷つけるから、酸っぱい物や刺激物は避けるようにと言う。愈々まともな物をまともに食えなくなるのか、、、まいったなーである。
朝何時もの様に冷蔵庫からバナナを出して立ち食いしたところ飲み込む時に喉の皮膚が裂ける感じがした。"これはヤバイ"。昨日パンを引っ掛けたのが瑕となっているのだろうか?飲むヨーグルトを出して少し口に含みバナナを口の中でどろどろにしてそっと飲み込んでみる。大丈夫だ!固形ヨウグルトなら柔らかいから大丈夫だろう。バナナはよしてスプーンでヨーグルトを一掬い口に入れて恐る恐る飲み込む。やはり喉の皮膚が裂けそうな感じがする。食物が喉を通過する時にゴックンと一点に食物をマトメて押し出そうとすると喉に圧力が加わって皮膚が広がり放射線で荒れた部分が裂けそうに痛むのだろう。一度に飲み込もうと食べ物を一定量口中から食道に押し出そうとする行為がいけないことが分かった。硬さはヨーグルトの硬さでも駄目なのである。一点にまとまらず喉を食道へと流れ出てしまう物が良いのだった。ご飯が駄目でパンをミルクに浸してふやかしてしか食べられないと言っていた患者の事が想われた。参ったな!兎に角食い物と食べ方を工夫しなくちゃ!
以前の病院へ紹介状を頼みに出かける。放射線治療終了後の効果判定の為の生検を行うのだが、癌を診断した最初の病院が行うのが筋だと言う。勝手にやっては責任の所在や後々何か有った時の病院同士のトラブルとなるからこちらの耳鼻咽喉科へ最初の病院から紹介状を貰う様にと言う。確かに世の中仁義が必要なのだが病気になってさえも自分で足を運んで人間関係の交通整理をしなければならないとは些か驚きである。担当医師はどちらも良い医師なのだが以前の病院へ行き事情を説明したら文書係りへ行けと言う。何故この病院で治療を受けなかったのか等と露骨に嫌な顔をして不満そうに言う。それでも担当医師には手紙を出して説明済みと言ったら黙って手続きをしてくれた。アメリカでは細かく分業が図られているのとセカンドオピニオンが定着しているので選択は患者の自由である。それだけに選択に自己責任が付いて回るのだが、、。
喉越しの快感が失せて恐怖と苦痛に
口で味わったものがそのまま直ちに飲み込めない苦痛に滅入っていたのだったが、気を取り直して色々食べ方を試みて結局食物を口の中で幾度も丁寧に咀嚼を繰り返して粉々にしてから更に飲み込む分量を舌で口中で少量に分けながら少しづつウーロン茶と共に 食道へ流し込む事で何でも食べられる方法をあみ出した。この方法でこの先も何でも食べられれば良いのだが治療が3分の1でこんな状態では先が思いやられて参ったナーである。 友人が留学先から帰ったので他の友人も誘って小さなクラス会をやることにした。行きつけの天婦羅屋を予約してあったのだが、2日前から突然物が痛み無くしては飲み込めなくなってしまい果たして天婦羅なんぞ食べられるのかと大いに心配した。昼間の内に蕎麦屋に行って試してみる。荒めにカンで汁と共に飲み込もうとするとやはり痛い。細かく咀嚼する作業は美味さも消え、イライラが募って半分ほど食べて止めてしまった。今晩は大分参るぞ!そう想ってテーブルに着いたものの、一つヅツ揚げて出される天婦羅は全て適度な歯ざわりの残しながらジューシーであったので、小ぶりなそれを味わいながら咀嚼を丁寧にして、冷たいウーロン茶で流し込み全て食した。余りーナーバスにならず、ゆっくり楽しめば何とかなりそうで安心した。慣れてきたのかもしれなかった。
大発見、喉飴が効きました
どうせ駄目だろうと想って買ったノンシュガーの喉飴が思いがけず効きました。多分乾燥しがちな喉に潤いを与えてくれるのでしょうか、唾を飲み込む事さえ痛かったのに、喉飴をなめていたらそれが平気になったのです。最初は黒糖喉飴が刺激が無くていいと想って舐めましたが、今は大概の喉飴が大丈夫で喉を潤わせるのに役立っています。試しにカジキマグロのムニエルをコンソメスープと一緒に頼んで、先ずパンをコンソメスープに浸して柔らかくしておいたらそれだけでスープがなくなってしまい、コーヒーを同時に頼んで噛みこなしたカジキをコーヒーで流し込むと、粉々にさえしておけば全く痛み無く全て食べる事が出来た。この方法なら当面OKかも知れない。
とろろ蕎麦
三好橋の小島に蕎麦を食いに言った。日本一と有名だそうだ。小奇麗な店で感じがよかったが、蕎麦は美味いが当たり前に美味い蕎麦だった。トロロそばなら言いかと想って食べたが、やはり細かく噛み砕いて少しづつお茶と一緒に流し込まないと美味く喉を通過せず、つるつるっと食べようとしたら喉が痛くて駄目だった。そうした食べ方だった所為で普通の美味さにしか感じなかったのかもしれない。それより何故かモズクがあったので食べてみた。すが喉にいけないと言われたが美味かったしスムースに喉を通過した。酢が確かにイガラッポサを感じさせた。最後に蕎麦善哉があったので食べた。餡子の様子や蕎麦団子の感触がとっても美味く喉を通った。蕎麦が蕎麦らしく 噛まずにツルツルっと食べられないのは悲しい。
前の病院に頼んであった紹介状が届いた。これで交通整理が出来たので仁義が守られて今度の病院で放射線治療終了後の効果判定の生検が可能になった。お陰で明日予約が入れられる。前の病院の担当女医が良い人で良かった。感謝!15回目の照射
診察日
金曜日は診察日で持参した耳鼻咽喉科への紹介状を手渡し、火曜日の予約を入れてもらった。体調の変化の有無等の一通りの問診に答えた後例の如く鼻からマイクロスコープを入れ喉と声帯の様子を視る。声帯の動きは未だ良いそうで幾分喉に放射線で焼け爛れた様子が現れ始めたと言う。声帯の癌の後はBiopsyの時にある程度取ってくれた為か目視が困難との事、以前の耳鼻咽喉科の医師達に感謝である。待合室の患者の群れを見て何時も想うのであるが、医者と言う職業は資格を取る為にろくに遊べず勉強し続け、更にその職に就いた後も朝から晩まで働き詰めで、些細なミスも許されず、常に緊急事態に備えていなくてはならず、その割には対価が割に合わない気がしてならない。世の中が感謝を以ってこうした医師や看護婦、消防士や教師職に対して待遇改善の術を講じなければ今後更にこうした公益に資する職種の就労人口不足は益々増加するだろう。
治療の後ヘアーサロンに行き伸びていた髪を整えてもらった。先日クラス会で撮った写真を見て自分の病人顔に驚いた。髪が長くなると余計むさ苦しさが病人風になってしまう気がして短く整えてもらったのだが、気分だけはさっぱりして良かったのだが病人顔はやはり病人なのだからそのままんまであった。
癌友達
放射線治療室のの前の長椅子に腰掛けて治療を待つ患者は夫々の死への思いが口を重くし一様に無口であった。毎日定刻に来る中で会釈する内に『おはようございます』から始まり少しずつ口を利くようになった癌友達が今日で放射線治療とCTチェックを終え、後は3ヵ月後の経過観察に来るだけと言う。彼女は30代半ばの主婦で乳がんの摘出手術をした後放射線治療を受けていた。夫や子供も理解はしてくれて入るものの副作用の倦怠感やストレスにやり場の無いイライラをそうした家族へぶつけてしまい、それをまた悔やんだり、耐えたりするのが 殊の外辛くしんどいと笑顔を造りながら言う。自分が世話されたい立場だが、世話をする事で乗り越えられる時もあると言う。終了オメデトウ、戻る事の無い様唯祈るばかりであった。
2日振りで散策に出かける。2日間歩かなかった所為かベットから起き上がる時右の尻の奥、股関節辺りの骨をペンチで挟まれたような痛みと、同じく右足の親指の付け根の間接が針を通された様な痛みに襲われた。椎間板ヘルニアを患ってもう7年程,手術が嫌でだましだまし運動と労わりだけで凌いで来たのだったが愈々手術かなっと想うほど状態が悪かった。背筋を伸ばしながらゆっくり歩き出すと、痛みはそれほどでも無く何とか歩けそうである。日が挿している内にと想って午前中にもかかわらず出たのだったが今日はやたらと風が冷たい。足元の落ち葉は木枯らしに舞うように時折渦を巻いて舞い上がった。ジャケットのチャックを首まで締めて何とか風を防ぎ手を長い袖の内側に入れて歩く。それでも景色は既に春。日差しは暖かである。梅は咲き木蓮の蕾から其処彼処と花を開き始めている。人々はスミレを生垣の外に植え、どの家も春の装いで着飾っている。そんな中、メジロ、ホウジロ、ツグミが歩みの先の生垣から飛び立ち、道路にはセキレイが餌を啄ばんでいる。民家の屋根には木鼠が餌付けされたのか裏山から出てきてツガイで登っおり、近くの不動池の天空にはトンビが幾羽もハゲタカの如く舞い、カルガモの雛を襲っていた。生の営みは時に優しく時に激しい。‶癌になって良かった″と言う少女の弁論をネットで見たが私には未だそうした達観には達せ無いがこうした自然の営為を眺めていると‶マー良いっか″っと思えてくる。先を悲観して自ら死ぬ人、事故で死んだり、誰かに殺されたり、また逆に死刑になったり、人の生死は様々である。スエーデン人は‶ Lagon ″と言う生き方を重視すると言う。それは ‶ そこそこ ″と言う意味だそうで、何でも一番は目指さずそこそこで満足すると言う。日本にも分を知ると言う精神があって慎みや謙譲の美が重んじられていた時代があったのだが何時しかこぞって一番を目指すようになってしまい、落ちこぼれや窓際等という概念が出来上がってしまった。いじめもそうした風潮が起因しているのではないかと思えるのだが。それにしても経営者が仕事を作らず、安易に首切りが出来る派遣社員ばかりを雇用して終身雇用を避けてしまった昨今。他社より給料を多く払っている事や多くの人を雇用して社会に貢献している事を誇りに思わず、売上高や、利益率の高さばかりに目が行っている経営者ばかりになってしまった社会の行く末は如何にと暗澹たる思いがする。低開発国の低賃金と競争して国内に会社を維持するには派遣社員の低賃金で競争するしかないと言う。其処には何の経営理念も工夫も知恵も無い、高付加価値の新製品の開発等低開発国が追いつけない製品を開発し続けるとか、新たなビジネスを想像するとか、雇用と賃金を確保しながら進むべき方向を全社に示せばその道は自ずと開けるものである。終身雇用に拠って蓄積された知識と熟練された技能を一資源として有効利用しきらない経営者の経営力の無ささがこの社会を駄目にしているようにしか思えない。真面目に働きさえすればそこそこ生きて行かれる社会を目指す事の方が幸せでいられる 筈なのだがと、何事も世の為に成し得ぬ自分はただ痛みが薄れていく歩みにほっとするばかりである。
昨日夜更かしをしたので眠剤を飲んで寝た所為なのか、朝やけに喉が渇き切ってしまっている気がした。冷蔵庫からウーロン茶を出して飲んでみたがゴクッとやると喉の川がヒキツレテ切れるような感じがした。治療を待っている間にも少し喉に痛みを感じていた。多分放射線での爛れが進行しているのかも知れない。昨夜は何となくネットで喉頭がんを検索し、闘病記という物を読んでみた。それは正に闘病記であって壮絶な戦いの記録であった。文人とその妻女のあからさまな戦いの日々が書き連ねられていた。俺には到底出来ない生き方であった。告知から、手術、抗癌剤及び放射線治療、再発、再手術、放射線治療、抗癌剤、疑念や迷いと葛藤しながら幾度もの挑戦。セコンドがタオルを投げない限り眼を切り腫らし口から血ヘドを吐き幾度と無く倒れながらもリングに立ち続けようとする気高いボクサーの様。自分ならセコンドを見やったりドクターストップかレフリーストップを直ぐに望んでしまうに違いないと想う。意気地無しでいい加減な自分はもっと簡単に死にたいと想う弱さしか自分には無いだろうと想う。痛みとか辛い事は避けれるものなら避けて通りたい。喉が食事の度に痛いだけで参ったなーっと想う自分はこの先の事態にどう対処出来るのだろうか疑問である。治療優先と言う事よりきっと痛みの少ない楽な道を優先した行き方しか出来無いだろうと思った。最初から読み終えるまで可也の時間を要して夜更かしをしてしまった。私の妻は私が癌と知って胃潰瘍になってしまい、私が彼女の面倒を見切らないので実家に帰した。夫婦の形は夫々であるが、この夫在ってこの妻在り、この妻在ってこの夫在りなのだろう。唯感心するばかりである。 18回目の照射
‶掟破り″
以前の病院から紹介状を書いて貰ったので早速放射線治療後の生検の為の打ち合わせの為耳鼻咽喉科へ行った。10時半の予約に一時間ほど待って名前を呼ばれ診察室前のセカンド待合椅子に腰掛けていると『ドウナッテイルンダコノカンジャハ』っと言う男性の大声が聞こえ、『敬友からサイバーナイフへ行って、こっちの放射線科に来て、今度は復敬友からこっちの耳鼻科に紹介されて?全く訳が分からないなー筋が悪いねー』『でも放射線科から回って来てはいるんだし、患者に直接事情を聞いた方が良いかも』終いにはその声は嘲っていた。どうやら私の事を話しているらしい。男性の医者が上司で私の事を掟破りのはぐれ者と想っているらしい。それにしても無神経な会話である。聞こえよがしな当て付けだったのだろうか。会話が終わると改めて診察室の中から名前を呼ばれた。中へ入ると30前後の可愛げな女医の笑顔があった。『荷物を後ろにおいて掛けて下さい。』意外と和やかである。一通りの経過を説明すると放射線治療後の評価は最初の生検をした医師にして貰った方がどの部位が癌であったのか正確に 把握しているのでベターだと言う。 本来ならば放射線治療をする前に最初に此方の耳鼻咽喉科で診察を受けておくべきだったと言う。放射線をかけてない癌に侵されていた喉頭の癌の状態を診察しておいたなら写真も撮って置いたしカルテも当然作ってあって それらの資料と比較に拠って放射線治療後の評価もできたのだが、一応このことは放射線科にも注意しておきますがと言う。そしてカルテには絵が書いてあるものの定かではなく、細胞を取った医師がもう一度同じ場所を見た上で同じ場所の細胞を取ったり辺りの細胞を取ったり決められた方が安全で無駄が無いと言う。写真もカルテも無いし、請求してもそんな物はくれないだろうしと重ねて言う。放射線科の医師も同じ事を言ってはいたのであるが、やはり合理的に考えれば当然であろう。然し 今更唯の素人である患者に言われても参ったなーである。デジカル化の昨今何故全てのカルテがデジカル化されて病院内各科はもとより病院間同士でネットを通じてやり取り出来ないのだろうか。紹介状も相変わらず手紙持参である。端末を叩くだけでカルテも写真も紹介状も即座にやり取りでき、医師もより豊かな情報が即座に入手出来、患者にとっても要らぬ手間が省けるものなのだが、病院の経営や医師間の出身校等々の問題でこの辺は多分一番改善されないかも知れないと思えるが。 結局最初の医師が自分の処ではやらないからそちらでどうぞというのなら此方でやるが兎に角きちんと確認して来いという。ホームドクターに最初に相談した折、そんな事は当然医者だからカルテを診れば解かるから放射線治療をした病院で後々の検査も引き続きして貰えば良いと言っていたか 、家に近所だと言う利便さも手伝ってそれに従ったまでだったのだが。復もとの病院に頼みに行かなくてはならぬとは頭の痛いことである。若し私が身動きの不自由な重患だったらどうなっていたのだろうか。治療や病院の選択について等オブザーバー的な相談員が各病院に配置されて居て総合的な手続きや進捗に対して患者に全体像を示し、見通しを立ててプロデュース役を担ってくれる体制があれば患者や医師にとっても便利だと想うのだが。検査や治療、その治療の効果やフォローアップの流れが全く解からず、自分にとっては当たり前のベターな選択と想ってした事が多少でも医師不信の掟破りのはぐれ患者と想われてしまった如くで気が重いことである。 最後には放射線治療後の評価で結果が悪ければ咽頭を全て取るとあっけらかんと言う。ネットで闘病記を見てアッチコッチ切って貼り付けてと壮絶な手術が紹介されていたけど自分にはそんな勇気は無いからこのまま放って置いたらどんな死に方になるのかと聞いてみたら、窒息死だと言う。皆最初はもういいや何て言いながら暫く放っておいても手遅れになって来て手術するんだから早めに決断した方が良いと 、もう私の癌が放射線が効いていなかった様な言い方に聞こえてしまうほどである。ふっくらしたその女医は笑顔が可愛く悪意は無いのだろうがデリカシーに欠ける様で何だか彼女に自分の喉をいじられるのは嫌だったがファイバースコープを鼻から喉に入れての診察振りは非常に丁寧にデリカシー溢れる操作技術だったので 意外であった。案外笑顔の如く優しい人なのかもしれない。
放射線治療の後、何時もの散歩に近所を歩いた。、夕べ入浴後にフジカルセラピーを受けた時のヘルニア体操をして更に足枕をして寝た所為か椎間板ヘルニアの痛みはは少し収まってきていたので何時もの様にだましだまし歩いたのだったが、何と無く何かに腹が立ってもう自分の健康の為に歩くのは絶対に止そうと思った。気分転換の為にだけ歩こう。同じ事なのだが何か身体の為に良い事等したくなくなってしまった。もう面倒くさいから心臓麻痺にでもなって一気に逝ってくれないものかとつくづく思う。鬱に陥ってしまったのだろうか、19回目の照射
2月の終わり、暖冬の所為かうららかな春の日和、病む身には何よりの助けの気がする。治療室の前に居ると何時もの顔ぶれの皮膚が焼け爛れて行くのを眼にし、自分ももうじきかと己が行く末の様を見てしまう。照射を終え家に帰って毎度の如く鏡で喉の外皮を眺めると薄っすらと日に焼けた様な黒ずんだ影が現れていた。もう喉の内側はいがらっぽいのを通り越して乾燥しきった異物の存在を感じていた。多分これからは日に日に症状が出て来る事だろう。一旦家に帰り昨日言われた以前の病院へ再診の予約を取りに行った。病棟の婦長さんに挨拶がてら手続きの仕方を聞いて、受付に行き3月8日の11時に予約を入れてもらう。その時間なら照射を受けてから十分来れる。同時に先の担当医師に事情をしたためた手紙を出しておいた。少しでも会う前に事の成り行きを説明しておきたかった。どうせ市中へ出てきたので友人に電話して昼食を共にする事とし、ためしにしゃぶしゃぶに挑んでみた。ポン酢だれはやはりもう咽がちだったのでゴマだれを肉にも野菜にも使用した。具材をしゃぶしゃぶした後食べる前に少しタレ皿の中で熱を冷まし、口の中に余り多くを頬張らず少しづつ嚥下すれば問題なく食べられ友人との楽しい会話の内に美味しく頂く事が出来た。その後先輩に電話をしてお茶を飲みに出かけると驚いた事に下咽頭がんを7年前に患った先輩の知人が一緒に座っていた。放射線照射治療を受けた後免疫促進剤だけで継続して服用しながら今日まで過ごしていて何の問題もないという。3人とも癌を患っているので暫し3人で癌談義に花を咲かせ思いがけない長い時を過ごした。20回目の照射。
ヘルニアの痛みで夜中目覚める回数が増してしまった。放射線治療後近所のジムに行き入会手続きをとる。それにしても昼間だというのに余りにも運動している人の多さに驚いてしまった。料金が昔の10分の一になった所為か人数は10倍になったような気がする。久しぶりに機械を使ったトレーニングをしてみたが、筋力が大分落ちていたのには驚き。初日だったので軽くこなして、その後マッサージを40分受けほんの少しだけ痛みが和らいだ感があったが。21回目の照射
この病院の放射線治療室は第一リニアック室は躯体部分の治療、第二リニアック室は首から上の治療と分かれており、患者もその罹患した部位によって治療室が分けられている。何時も抗癌剤を点滴しながら放射線を喉にかけていた入院患者が他の部分にも転移が見つかったのか躯体部分の照射室に移った。もう首の皮膚は真っ赤に焼け爛れて所々皮が向けている。自分の喉は何時からあのようになるのだろうか?人によって多少の違いはあるらしいのだが。明日から土日で2日間休みなので少し喉の乾燥が緩和されるかもしれない。My purpose of therapy will not delaying death. I just want to be easy life. 22回目の照射
乾燥で軋む喉に野菜ジュースで湿りを摂りながら殆どの食物が少しずつならよく咀嚼すれば嚥下可能な様になった。嚥下時の痛みえの恐怖感が喉を緊張させて硬直させ更に飲み込みを難しくしていたのかもしれない。やっと大分慣れたようで色々試したが可也いけそうである。然し、油断して咀嚼が荒かったり、飲み込む分量が少しでも多かったりするととたんに喉の皮が軋んで裂けそうになってビックリしてしまう。少し食べた後はアイスクリームで喉を冷やす。滅多にアイスクリームなど買わなかった私が食後に食べるようになった。
大型の低気圧の所為で足の痛みと頭が痛む。目頭が痛い。気だるさが極度に達し照射を受けた後何もする気がしないで唯ベッドに横になる。TVを一旦点けたが鬱陶しくなって直ぐ消してしまった。胃も動かなく食欲もない、アイスクリームは何とか受け付けたのだが、更に胃が止まってしまった気がして胃薬と共にアスピリンを飲んで横になる。抗癌剤治療を同時に受けている人は大したものだとつくづく思った。兎に角疲れた。23回目の照射
抗癌剤の投与を受けながら放射線治療を受けているのに定時の検査で新たな転移が見つかった人は非常に気の毒である。一抹の不安を抱きながら回復への期待の下に副作用を必死に我慢して居たのに事実は回復するどころか悪化していたと言う現実をいきなり知らされるのである。確かに殆どのがん患者は回復への期待より転移や再発の不安を抱きながら一縷の望みに賭けている観がある。然程楽天的でない者はやはり駄目だったのか!っと諦めに似た面持ちで唯寡黙になる。皆強い!明日肝臓のCTを撮るが結果は果たして何なのか?最近どうやったら巧く死ねるかを良く考える。あちこちに転移していたりしたら治療の為の治療だけは受けたくない。残りの人生を治療だけで費やす事だけは御免である。23回目の照射
夕べから喉にカラカラ感が有り左側に痛みに似た異物感を覚えていたが、今朝目覚めるとやはり喉が渇き切って裂けそうな感が有った。駐車場が混むので8時前に何時もの様に家を出る。10分の違いで駐車場が一杯になってしまうので朝は必死に遅れないように行くのだが、何故十分な駐車スペースを造らないのか疑問に思う。多分これ程科学が進歩し、それに連れて様々な病気が早期発見され病む人がこれ程多く顕在化されることを想定していなかったのだろう。治療が始まるのは8:45なので3、40分待ち時間が毎日有り顔見知りの中には目礼から挨拶するようになった人も出来てくる。乳癌の摘出手術後放射線治療を受けている女性が手術をした科の担当医師と放射線科の医師とが照射回数が違うので迷っていると言う。最初20回から25回くらいやりましょうと言う事だったので、何回やるのかはっきりしてくれるように要望したところ、20回でいいと思うが念のため25回しても良いかなっと思うからどちらが良いか自分で決めてくれと言われてしまったとのことであった。放射線科は25回を主張しているとの事。毒を以って毒を制する治療なのであり、必要ではないならよす方が良いのだが、放射線治療は一旦やめてしまったら繰り返しはできないと言う。無知な患者に判断を委ねると言う事が本当なら何とも無責任な医者なのだろうかと思わざるを得ない。今日は午前中照射を受け、午後から肝臓のCT撮影を受ける。CT画像写真のコピーを自費で良いからくれる様に頼むと担当医師の許可が無いと駄目だと言う。画像や検査のデーターは私の個人情報で明らかに私の物であると思うのだが、何故こうした 個人的情報をただ受診した病院や医師だけで独占しようとするのだろうか。アメリカで幾種類もの検査を受けたが、全てのデーターは先ず個人に渡される。例えばCT写真を撮ると撮影のスペシャリストが撮影をし、その写真をリーディングし診断するスペシャリストが診断書を署名入りで患者によす。その診断の病名病種に因ってそのれぞれの専門のスペシャリストの所に行く 様に勧めるのだ。椎間板ヘルニアと診断された場合、整形外科に行くか、脳神経外科に行くかは自分の勝手である。何件かセカンドオピニオンを聞いて自分の納得した手術方法を選ぶのである。日本で写真のコピーをくれと言うと、何か他の医者に掛かるのかと疑念を持たれ露骨に嫌な顔をされる場合が有るが、自分は外国に長く滞在する事が多いので何かの為にも自分の資料を唯単純に持って居たいだけなのに困ったものである。 CT検査を申し込んだ時、事前に造影剤の副作用事故への承諾書を書いて提出してあったのだが、再確認され、更に撮影時に造影剤を点滴される前、身体が熱くなるが異常ではないので心配しない様に、最中には気分が悪くないか何度も確認されかえって心配になる程慎重で、 それは非常に良い事ではあるのだが、そうした問いかけはどうか余りシリアスな様子ではなくおっとりした口調でお願いしたいものである。余りにも早口で切迫したような口調でやられるとかえって何か起きそうで不安を誘う。撮影後も5分間待合室で異常が発生しないか待機を要求された。これ程安全を期している事は有り難い事である。 それとは別の事だが、然し何時も疑問に思うのであるが、病院の様々なドアが自動ではなく必ずノブを触らなくてはならない、殊にトイレのドアは感染対策として自動にしてもらいたいものである。耐性緑膿球菌や様々な菌の蔓延、感染対策は換気システム等に配慮が見られない。差別ではないが、病室の退入院時内部、家具備品、ベッド等の清掃殺菌を完全に図られているのか甚だ疑問である。清掃を下請け清掃会社に発注しているだけで清掃殺菌のプロが管理チェックをやっているとは思えないのだが。マスクもせず、排尿ホースと点滴バーを装着して館内を移動している患者の自由権と感染対策と言う安全権と言う一見拮抗する人権を見据えた感染対策科が何処の病院でも見えない。アメリカで妻が入院した折手術後直ぐに退院しろと言われて驚いてもっと居させてくれと頼んだら、病院は色々な病原菌で一杯な所だから一時でも長く居ない方が良いと言われ、それまで保険会社が入院期間のカバーを承認しないから皆早めに退院させられてしまうのだと信じていた私はビックリしたものだったが、確かに待合室で風をうつされてしまった例は良く聞く話である。何処の病院も一律お粗末な感染対策と酷い建築物であるのは医師にとっても患者にとっても不幸な事である。24回目の照射
照射治療を受けた後予約をしてあった最初の病院へ放射線治療終了後の効果検証の為の生検の以来に出かけた。 これまでの経緯は手紙にて事前に説明してあったのだが直接説明がてら幾度も紹介状を書いて貰った事のお礼とお詫びをしておいた 。 担当女医は全く腹蔵なく自分の命に関わる事であるから病院や治療方法の決定はセカンドオピニオン等十分に納得いくまで情報を集め熟慮検討の上決めるように、又何時なんどきでももっとより良き治療方法や病院が見つかったら遠慮なく転院等の相談をして欲しいと真顔で言ってくれた 。 私が放射線治療を受けている今の自分の喉の状態をビジュアル敵に知りたいとお願いすると快く応じてくれ、モニターにファイバースコープで撮った映像を映し出して見せてくれた。自分の目で実際に焼け爛れた状態を目視する事に因って食事を摂る時の恐怖感や不安感が解消された。 見えざる故に想像が不安を増幅させ更にその不安が喉の筋肉を緊張させ嚥下時の痛みをも喚起してしまうのだ.火傷でグジャグジャかと思っていた喉は赤く爛れていただけであったのだ 。 医師は痛くないように刺激物や硬いものは避けるだけで何でも食べて良いと言う. 医師はその知識と技術を以って評価されるのであろうが、それ以前に病む者の弱く萎えた心に更なるストレスを与えない心遣いの有無をも評価に加えるべきであるとつくづく思う 。 自尊心を傷つけられたり、治療の為の治療、手術の為の手術、単にDelaying death の為の施術に因って、その患者の短い最終の人生の歳月が病との闘い、痛みに我慢するだけの日々と時間だけで終えて人としての生を全うし得ずに終えるしかない多くの患者を眼にすると一寸違うんじゃないのっと思ってしまう 。 誰しも死ぬのは嫌だから手術を受け、抗癌剤の投与、放射線の照射を受けざるを得ないのではあるが、その見通しをきちんと話し合い、短い余命をどのような状態で迎えるかの話し合いの機会を受けたいものである 。 人夫々で癌を告知されたくない人もいるだろうし、私の様に詳細に全てを知り、若し治癒率が低い見通しであったら人としてのクオリティーを出来うる限り確保維持する事を優先する選択肢を得たいと願う者も居る筈である 。友人の知人に喉頭がんで口頭を摘出し、胸の皮を剥がして食道を作りって喉に穴を開けて其処から流動食を摂取するように手術を受けた後、更に抗癌剤と放射線治療を受けながら結局癌の進行を止められず闘病に尽きる1年で亡くなってしまった人が居たが、生きようと病と闘う事、それを支援する医者との構図が時としてNo Choice として治療の継続的な流れのままに患者の人生が進んで行ってしまう。そんな事だけは勘弁してもらいたい。若し余命が手術で治療の継続で1年伸び病院のベッドで終えるのと、手術をせず、緩和措置のみで3ヶ月と言われるならば、私は3ヶ月の寿命の選択を決断したい 。あそこに行き、あれを見たい、あれを食べたい、あいつに会いたい。 最近死に方ばかり考える。 毒を以って毒を制する治療方法である放射線治療は何時復なんどきその毒の為に癌化する細胞が現れないとは限らないのである。 どんな生き方をするかを考えるより最悪の時にどんな死に方が選べるのだろうかと思い悩む 。 ホスピスでは無く地域に一つだけでも病院の中に死に行き科があるべきだと思うのであるのだが. 照射量が70Gyと多いので放射線治療終了後2ヶ月位を置いて傷の癒えるのを待って生検すると言う事で5月の23日辺りの入院の予定を入れてもらい、終了後の診察日の予約を取った 。 25回目の照射

写真をみながら私の癌が半減している事を説明してくれたのだが2/3以上の照射を終えているのに未だ半分も癌が残っているのだ。半分も癌が消滅したと取るか、未だ半分も残っていると考えるか、見方の問題だが、彼女はそんな私のネガティブなものの見方を察してか、照射が終わってからも放射線の効力は有効で引き続き癌は消減に向かうと言ってくれた。照射が70Grで多いので焼け爛れた粘膜の回復を待つ事と照射の効果を見る事をも兼ねて2ヶ月間間を置いて細胞検査すると言うので5月23日に入院の予定を入れてもらった。若しそれまでに癌が消滅していなければ片方の声帯を摘除すると言う。片方だけなら会話が可能と言う事なのでその時に成ったら考える心算だ。今はただ淡々と治療を受けるだけである。何事も自分で出来る事は無い病気でなのでお任せであるのだが、今日は市大の耳鼻科を断り、照射後は全て敬友でやるからと決めて来た。
照射の後定時の検診を受けた。ファイバースコープを覗きながら『貴方の粘膜は強いのね未だそんなに爛れていないわ』と言った後『後8回で癌が消えてくれればねーっ』と独り言とも思える小声で女医は呟いた。昨日この目で見て未だ癌が半分消えていない事は知っており、自分もそう思っていたので同じ思いであった。彼女の話では私の喉の粘膜は放射線に対して感受性が余り高くなく、即ち抵抗力が有って然程荒れていないと言う事だった。他の患者を見ると表面の皮が赤く爛れてベロッと剥けてしまっている人が多いので何時そうなってしまうか、少し憂鬱である。今日は今まで黒く陰になっていた照射部分が赤く腫れて、昔の手術の傷の部分の一部が少し剥け始めた。土日は照射が休みなので、喉の違和感、乾燥感や痛みは緩和されるだろう。その分癌も照射のダメージから回復するのかもしれないが? CTの結果をテーブルの上のコンピューターで見せてもらった。以前の検査で言われたピンポン玉位の塊は親指の先位に減少していて、単なる石化物であろうとの事である。積年の不安が解消出来た。有り難い事である。それにしても科学の進歩の素晴らしさ、マウスのローラーを操作するに連れて私の肝臓が3Dの様に描写される。シャーカステンに貼り付けた幾枚ものフイルム画像を見るよりも素人目にすら解かり安く映し出された画像は美しくもあった。照射26回目
心配していた喉の表皮も赤みは増したものの未だ剥けずにいる。土日があった所為なのだろうか?何れにせよ後8回あまり副作用が強く出なければ良いが。然し、私の細胞の放射線への感受性が低いと言う事はがん細胞も同じで放射線によって余りダメージを受けないのではないかと多少心配になる。がん抑制遺伝子として知られる遺伝子p53は細胞内の他の遺伝子に異常が生じると修復を促し、修復できない場合はその細胞を自殺に追いやることで他への影響を防ぐなど「守護神」のように働いていると言うが、放射線照射に因ってこの機能が壊れたり、またこの機能が強い患者はがん細胞自体を修復しないのか等とも考えてしまったりもする。今日は月曜日でスポーツジムが定休なので近所の山に散策に出かけた。風は久しぶりに寒の戻りかの様に肌寒く渇いた喉には痛くさえあったが早いもので鶯の声が聞こえた。新緑の山間は目に優しいだけではなくその空気の味も何とも心地良いものであった。宗教心の無い身だが不動明王を祭った神社が在ったので何も祈らずただ賽銭箱に志のみ入れ黙礼してみた。午後からは先輩の事務所を訪ね昼食を共にした。何時もの蕎麦屋に行き寒かったので温かい蕎麦と合鴨焼きを食べた。二人とも温かい蕎麦などまず食べる事は無かったのだが寒さと喉の調子を考慮した私と期せずして同じものを頼んだ。つるつるっと蕎麦をすする喉越しのうまさ等夢のまた夢、蕎麦をもぐもぐと食べるしかない身が情けない。粋じゃないと思われることは良いとしても見る人に不味そうな感じを与えてしまう事が申し訳なく些か恥じ入りながらそれでも全て平らげた。先輩は未だに抗癌剤を服用しているが再発は抑えられているのだが、一旦死を覚悟して遺言まで書き身辺整理をしてしまった後何やら気が抜けてしまって何事にも意欲が失せてしまったと言う。下降結腸と肝臓の癌を摘出した後抗癌剤を7ヶ月間投与されたが肝臓に再発し再手術で再び肝臓の半分を摘出、その後半年で肝臓に癌が再発しその癌はラジオ波で焼き現在も抗癌剤を服用している。腹部の大きな傷痕はその手術のもの凄さを物語っている。死を真剣に直視した緊張感の後の虚脱感なのだろうか。それに比べれば自分の癌などは屁みたいな物かもしれない。先日会った先輩の知人も、又その知人の知り合いの知人もそうだそうだが、癌が治療が終わってから数年間何時再発するかとビクビク暮らして居て前向きに生きられず、再発の恐怖が薄らいた頃には何の意欲も無くなってしまっい、生甲斐さえ失せてしまい、生きる屍みたいな気がしてならないと言っていたが、癌との闘いはあまりにも多の精神的エネルギーをも人に費やさせてしまい、例え彼が肉体的に生き残れたとしてもその残りの人生を生きる意欲さえ既に消費させてしまっているのかも知れない。27回目の照射
何時も気になっていたのだが病院の玄関へのアプローチに少女の石の坐像が在り患者かその家族が架けたのであろうか数本の首飾りをまとい頭には賽銭なのか小銭幾つも載せられていた。誰の発案でこの少女の像が此処に置かれたのかは何も記されておらず何の意味合いかも全く解かりかねるのだが、その少女の温和な眼差しは見る人を和ませ、何か祈りたくなるような神々しさを感じるのであろう。喉の乾燥感は何故か和らぎ声の嗄れ具合も同時に薄れた気がする。ただ、喉に傷があるような持続した痛みが常駐してはいた。友人の会社の組織の交通整理に出かけ、皆で昼食後に一時間余り話し続けた。話す事が喉の傷を悪化させるのか、声帯の運動になって循環を浴するのかは全く定かではないのだが、未だ人の役に立てる事は良い事の様な気がする。健康な人と食事を一緒にする事は実に気分転換となるのだが、ついついゆっくり咀嚼して少量ずつ飲み込まなければいけないことを忘れてしまい喉を痛い目に会わせてしまい、慌てて液体を流し込むが後の祭りである。『勝烈庵』のヒレ定食を頼みキャベツをお替りした。照射28回目

放射線技師が毎週交代する。勝者の平準化の為なのだろうか、4人の技師が2人づつ組んで第一、第二リニアック室とローテーションを組んで毎週交代する。几帳面に照射位置を小刻みにベッドの高さと照射ノズルの位置を調整し、流れるように毎回同じリズムで進める人も居れば些かラフな決め方をする人もいる。先端テクノロジーも所詮操作するのは人間なのだからヒュウマンエラーが出る事が納得した気がした。喉の外皮の放射線焼けと喉の状態の日によっての差異をその日摂った食事や果物、飲み物等の内何か好調子をもたらしたのか模索していたが、外皮がだんだん悪化して行かず、日によって異なる事に気付いた後は、照射の照準が内部のときは外皮には余りダメージが無い事が解かりかけて来た。放射線の焦点が内部の声帯に合っていなければ外皮がその照射をより浴びてしまい赤く火傷するし、声帯に照射が焦点していれば声帯や喉が痛く乾燥してしまう。29回目の照射
遂にその時が突然やってきた。朝目が覚めたとき何やら喉仏が痛かったが余りきにせずに居て歯を磨く時に鏡を見て驚いた。放射線治療を受けている以上当たり前の事だったのだが喉仏の外皮が天頂部で剥けていて赤く爛れていた。ヒリヒリと赤剥けた其処はじくじくしていた。参ったなー、これからどんどん剥けていくのだろうか?い今まで剥けなかったのが不思議なくらいなのだ。先を思うと暗澹たる思いがする。喉の皮膚や筋肉等が焼かれて硬化しているのかやたらむせる様になって来た。特に飲み物を飲み込もうとする時に意識的に飲み干す事に集中しないと一部が気管に流れ込み酷くむせ返ってしまう。むせることは禁物である。喉の皮膚が張り裂けてしまいそうに痛む。多くのがん患者がこれ以上の痛みに耐えているのだから甘んじるべき、否、これまでの軽微な副作用を寧ろ感謝するべきであろう。スポーツクラブに行って運動の後サウナに入ったが喉仏の皮が剥けた所が熱せられる事を心配してタオルを首に巻いて入った。 歌手鈴木ヒロミツが肝細胞癌で亡くなったとTVで言っていた。暮れに腹痛で病院へ行ったところ余命3ヶ月と診断されて入院治療より家族と最後の時間を過ごす事を決断して通院による緩和治療を選択したそうである。選択と決断、良い死に方をしたものである。合掌!30回目の照射。
金曜日は診察日である。喉は全体に何か硬い筒をはめ込んだ様な感じが常時している。『皮が剥けたのね、殆どの人は大抵最終章になって副作用が顕著になるものなのよ』担当医は私の喉の皮が剥け始めたのを見て言う。後4回の照射なのにばたばたっと酷くなるのはたまらない。このくらいの程度で終わって欲しいものである。剥けた皮膚にアズノールと言う消炎軟膏、喉の粘膜保護剤として食事前に飲むようにアルロイドG液を処方して貰い、いよいよ薬に頼る様になた。軟膏はかなり硬めだったので剥けそうになっていた皮膚に塗るには十全の注意が必要だった。薬が効いてくれれば良いのだが。31回目の照射。
土日で照射治療を休んだ事で喉の痛みや乾燥感、異物感が緩和されるかと思ったが全く変わらなかった.ただ喉仏の皮膚は軟膏の塗布が効いたのか爛れ剥けは広がらなかった.それにしても喉の痛みは心配になるほどである.診察は金曜日だし、何れにせよ放射線治療は途中で止められないのだから我慢するしかないのである.喉の炎症緩和の飲み薬なぞ何の足しにもならない.不安が痛みを助長するのかも知れない.ファイバースコープで覗いたモニターを見たいと切実に思った.32回目の照射
南天喉飴が喉に良いと新聞に出ていたので舐めてみる.メンソールが刺激的だが痛みを紛らわせる.明日は祝日なので照射も休み、何となく気が楽なせいか痛みにもなれたような気がした.喉仏の皮は軟膏のお陰なのか全体の色素沈着は増したが爛れ剥けは止まっている.33回目の照射.
春分の日で照射が一日空いた所為で楽かと思ったが相変わらず喉の状態はアップダウンしながら確実にダメージを受けている。当たり前と言えばそうなのだが少しでも痛みが和らいでいれば直ぐ様忘れて咀嚼もろくすっぽせず飲み込んでしまって痛い思いの繰り返しである。何とか丹念に咀嚼する癖を習慣付けなくては後悔しながら心に念じる。後一回と言う事で何となく気が楽な日で、放射線技師の方に照射時の様子を持参したデジタルカメラで写真を撮って貰った。34回目の照射
今日は最後の照射と診察日である。待合室の顔ぶれも一通り変わり、こんなにも次から次へとがん患者が続くものかと感慨に耽ってしまう。聞けば一日50人程度の患者を治療しているとの事であった。問診の折、喉の飲み薬アルロイドG液が効果が無いと言ったら効く筈だから必ず食事の5分前に喉に溜めるように飲む様に勧められた。暫く嚥下を我慢して薬を喉に停滞させて置く様にしたらと言うのでその後咽ない様にコントロールして試したら、何となく痛みが緩和された気がする。来週もう一度診察をすると言う。経過が良ければ良いのだが喉仏の皮は完全に剥けて照射を受けた範囲の皮膚の色素沈着が濃厚となって一部は完全に干乾びてしまった。やはり一定量の放射線を浴びると症状は顕著となるのだろう。放射線治療を終了した後でも放射線の影響は持続していて症状(副作用)も進行し続けると言う。思うに癌の治療とは外科手術にせよ薬物治療、放射線治療にせよ『肉を切らせて骨を断つ』命懸けの戦いであり、患者自身にはその覚悟も技量も無いまま突然いきなりそんな修羅場に立たされてしまうのである。荒木又衛門や宮本武蔵の様な介添え人が居てくれればきちんと敵の刃を見切って肉のみ切らせて敵の骨を断つ手助けをして貰え、見事本懐を遂げられ様もするだろうが、拙い介添え人を選んでしまったらただ無謀な戦いの挙句満身創痍のまま苦痛に苦悶しながら死ぬしかない不運な目に会ってしまうであろう。幸いにして私は介添え人に恵まれ緒戦は何とか凌いでいる。戦いは見切りが如何に肝要かつくづく思う。多くのがん患者が残りの僅かな人生をただ闘病と言う苦痛の内に過ごさざるを得ない現状に何か言い知れぬ疑問を感じてならない。人は最後まで生きる為に努力すべきであるし、殆どの人間が死にたくない筈だとの命題が大前提となって癌と診断された後は自動的に一連の治療が進められていく。治療の時点時点で詳細な治療の効果の診断と以後の治療計画と生活の質の説明や効果の予測等あらゆる情報の開示による患者の選択の幅を如何に広げるかを図ってもらいたいものである。時には『角を矯めて牛を殺す』様な治療が行われている気がする。命が永らえる事と、生きる事の違いにもう少し医療は関心を払うべきである。無論告知されたくない患者も多数居り、且つ、告知に因ってかえって気が萎えてしまい,治療拒否やノイローゼによって自殺や、其処まで行かずとも治療効果が出なくなってしまうケースも少なくないかも知れない。しかし、程度に因ってきちんと治療する為には告知に因って患者に敵の存在を明確に示して、介添えの確かさを示して戦いの場に臨ませる方が正当な道であると私は信じる。何れにせよ今日で放射線治療は終了した。感謝である。記念に友人とロース トビーフを食べに行った。楽しい会話と美味しい食事は喉の痛みを暫し忘れさせてくれた。友人と美味しい料理に、そして未だ完治していないにせよ治療してくれた医師達に感謝したい。

首の色素沈着が目立って来たので少し日に焼けようと穏やかな日差しの中久しぶりに近くの山道を散策した。山桜が既に花開きメジロや鶫様々な小鳥たちがさえずり山は正に春爛漫。それにしても何故これ程心が和むのだろか、自然の中に居るだけなのだが、、、。鶯が鳴く中2時間ほど歩いたのだが何時もは一時間ほどで歩いていた道のりを倍も掛かってしまった。無心の長閑さを楽しんでの理由ならば良いのだが、いきなり赤血球が減ってしまったのだろうかやたら疲れて息苦しく歩みを進めるのさえしんどくなってしまった。目眩が間断的に続いたので身体を休めながら頂の公園から春霞の東京湾を暫し眺めていた。5分咲きの桜の木の下では椋鳥が群れ、私の存在など眼中に無いかのように餌を啄ばんでいる。情けなさが全身に満ちてきたが、それでも自然の中に身を浸らせる幸せは何よりの心身への贅沢な御馳走であり、何事も無かったように復歩みを始められた。

右の首筋がガジガジに固まってしまっていたのでスポーツクラブに行き軽く柔軟体操をしてから30分マッサージを受け、ジャグジーに入って身体をほぐしたが未だ調子がいまいちだったので頭をアイスノンで冷やしながらアスピリンと睡眠薬(マイスリー10)を飲み早めに床に就いた。熟睡した所為か今朝は息苦しさや気だるさは去っていた。今日は久しぶりに肝臓癌を患っている先輩を尋ね元町で昼食を共にした。洋品店が二階の道路側に一部をプチレストランにして最近開いたばかりだと言う。玄米と健康野菜をメーンにした店であったが若いウエートレスが玄米を切らしていてバケットで良いかと聞くので笑ってしまった。ビーフストロガノフを頼んだのだったがレトルト食品に具剤を加味して手を加えたのかランチにしてはきちんと作られていた。付け合せのサラダはオレンジ十スースのような甘めのフルーティーなドレッシングが口に優しく、お詫びにとスイーツをサービスしてくれたのだが焼きりんごもそれなりに美味しかった。窓の外の道行く人を眺めながら暫し取り留めの無い会話にて楽しい時を過ごした。
放射線治療を終えて早一週間、喉仏の周囲の皮が大分剥けて喉の照射された部分がまだらになって随分見苦しくなってきた。照射を受けていない所為かそれとも飲み薬が効いているのか嚥下時の痛みは大分和らいできた。久しぶりに穏やかな日曜日海沿いの公園まで散歩がてら花見に出かけた。独りで歩く身はなんと無しに引け目を感じてしまう程親子連れが多く太平である。気温も半袖で歩ける程穏やかで桜も満開であった。公園の中にかなりな池があり思いの外多くの野鳥が生息しているのには驚かされた。生息図を示した看板に拠れば、ツグミ、アオジ、ショウビタキ、ヒヨ、コシキリ、セッツカ、チョウリンボウ、カワラヒワ、カイツブリ、コガモ、オナガカモ、アオサギ、シロサギ、ウ、あまりの種類の多さに驚かされる。しかしながら池の周囲が高いヘンスで完全に囲ってあって遠くからしか眺められないのは誠に残念である。生き物を守るが故に致し方なき仕儀なのであろうが、人と自然は今や敵対してしまっていて共存共生は叶わぬと言う証左を見せ付けられているようで和みの時すら虚しさを感じざるを得なかった。
朝起きると喉に痛みを感じて何やら喉に痰の塊を感じて洗面所で痰を吐くと黄濁した中に血の塊があった。昨日の夕飯に帆立貝の炊き込みご飯を作って乾燥シラス上に振りかけて食べたのだったが、喉の消炎剤を服用せづに食したのと乾燥シラスが硬かったのが重なって嚥下時にシラスが喉を切るようなシャープな痛みを感じてしまったと思ったのであったのだがやはり予感は当たった様である。油断は禁物でいまさら後悔しても仕方が無いが膿まずに居てくれればいいのだがと慌てて消炎剤を何度も喉に流しとどめ置く事を試みた。喉仏の外皮は剥げてケロイドの様子を呈して見る人に気持ち悪がれてしまいそうであるがこれもどうしようもない。曇りの所為か気分もすぐれない。それにしても近頃はが所々痛むようになってきたのと背骨と指の関節が痛み始めた。放射線でカルシュームのサーキュレーションが悪化したのではないかと思えるのだが、以前放射線科の医師に尋ねたところそのような副作用は症例が無いとの事。どうなってしまっているのだろうかこのところの体調はと不 安が募る。
私は不審者なのだろうか?
家の近所を散策がてらスーパーに付随の広場にある郵便局に小荷物を出しに行ったところ流行なのかベージュのコートの裾から黒のレースのフリルを10cmほど出して18歳位の女の子が歩いていた。単純にファッションに興味があったので『すみません一寸お伺いしても宜しいですか?』と先ず声をかけたら立ち止まって振り向いてくれたので『コートの中はスカートですか、ファッションに興味があってどこで買ったか教えてもらおうかと思って』と話しかけたらハイっと答えただけでいぶかしそうに一瞥し逃げるように去っていってしまった。私は怖がらせてごめんなさい!と後姿にただ慌てて言い訳の言葉を投げかけるだけだった。未だ明るい昼間の3時頃、他に人も居るスーパーの広場、郵便局の前である。私が何をするというのだろうか。人相の悪い老いた男で見ず知らずの若い女の子に突然声をかける不審者か変質者に見えたのだろうか。おそらく不快な怖い思いをさせて申し訳なかったと反省するべきなのであろうが、せめて『すみません急いでいますもので』くらい言って立ち去ってくれればこちらも傷つかなかったのだが、それ以来ズーウト気が滅入ったままである。もう二度と若い女の子には声をかけることはよそうと後悔しきりである。彼女が家に帰って今日ぶしつけな不審者に会った事を家族に話しているかも知れない。実に恥ずかしい事である。近所なのでもう一度顔を会わせるかも知れないだろう事を思うともうそのスーパーは暫く行きたく無い気さえしてしまう。後悔しきり疲れ切ってしまった今日であった。
けいゆう病院耳鼻科での診察
今日もとの病院であるけいゆう病院の耳鼻咽喉科で放射線治療終了後の診断に行った。担当医師は何時もの様に鼻から麻酔液を噴霧しマイクロスコープで喉の中を覗き、モニターに映し出した映像を私にも見せながら懇切丁寧に現状を説明してくれた。最近痛んだことと出血した事で酷く爛れているのかと思ったら炎症は可也治まってきているとの事であった。ビジュアルに見せてくれる事でどれほど患者が安心できそのことが患者の助けになるのか、この医師は理解しているのである。今は放射線照射を終えてその効果を細胞検査するまでの間ただ炎症が引いていくのを2ヶ月程経過観察するだけで何の治療も無い状態なのだから、現状と今後の病状、治療スケジュール等の見通し等の説明が、諸々の不安からのストレスを除去してくれ、今の私にとっては何よりの治療となり、ただ感謝するばかりである。

何日か頭痛が続いている。それに喉の痛みが常駐しだしたのと飲み込みの際の痛みも顕著に感じられるようになった。放射線で焼かれた正常な細胞が回復し始めたのだろうか、シャープな痛みが続いている。相変わらず首の凝りが酷い。頭痛の所為かやたら疲れやすく無気力になってしまう。喉の右側の何処かが切れているような痛みが切れ目なく続くので何となく不安が募るが喉の外皮は漸く一皮剥けたので放射線治療が始まって以来初めて軽くボデーシャンプーを付けたタオルで擦ってみた。痛みは右側の一部分だけであった。首をきちんと洗えたので本当に気持ちが良かった。こうした外皮の回復の様子を想えば喉の内側も多分可也回復している筈である。それにしてもこの気だるさには参る。
この気だるさは何なのだろうか?午後から天気が崩れると言うので昼一番に散歩に出かけた。兎に角息苦しい!右の首がガジガジで喉の右側が脈打つように痛む。首から上を身体から外して何処かへ置いておき楽になりたい。何かがどうにかなってしまったようだ。代謝異常なのか、上手く酸素が取り込めていないのか、それとも血中の赤血球が減少してしまい取り込んだ酸素を血液が全身に運んでいないのか、息苦しくて元気が出ない。”クッソ!”っと思わず言葉に出てしまう。19日が放射線科の診察日なのでその時に血液検査をしてもらおう。体力が急に落ちてしまった。呼吸を荒めながらゆっくりと歩みを続ける。嫌になって止めたくなったが景色に目をやってぼうっと歩く。太極拳の運動のように緩慢に歩めば小鳥達の鳴き声が聞こえ、それはそれで気持ちが良いものである。集中力の低下、立眩み、気だるさ、声の更なるかすれ、頭痛、喉の痛みの常駐、首の凝り、いきなり体調が崩れてしまった。
放射線科の担当医が転勤し跡を継いでくれた医師の診断を初めて受けた。最近の症状を説明したのだが、けいゆう病院の耳鼻科の診察日が一週間後である事を確認するとそちらで血液検査をしてもらって調べるようにと言う。定位放射線治療は照射範囲が極狭い範囲なので全身的な副作用は出にくいとの事である。甲状腺も一部やられても残りがカバーするのでたとえ機能低下の症状が見られても一過性のもので心配無いと言う。以前の担当医とは全く対応が違って距離感を感じてしまうのは途中から受け持つ様になった故に仕方が無い事なのかもしれない。それにこの市民病院の耳鼻科で治療を受ける事になっていたならばもっと違った対応をとるであろう様な感じがしないでもなかった。それにしてもワインを飲んでも良いかと聞くと喉にしみなければコップ一杯位は良いだろうとの事、今晩あたり2ヶ月振りに飲んでみよう。
ワインを飲んで寝た所為か目覚めも良く体調が少し回復した気がする。風が吹き荒れていると表現するしかないくらい強風が続いているので散歩に出かけられずジムに行ってスパだけ利用して首をマッサージしてもらい帰る。体調は不安定ながら少し体力が戻ってきた感が有る。然し、何故か声がますます出難くなって来てしまった。先ずは体力さえ戻ればその内に声も回復してくるかもしれない。そう思うことにしよう。
けいゆう病院の耳鼻咽喉科で診察を受け生検の手術の為の血液検査、肺のレントゲン、心電図等の検査を受け、入院の予約を入れて来た. 最近喉の痛みが顕著なのと良く咽るし声の出が悪くなっていたのだったがファイバースコープで見る限りは特段の荒れは見られなかった.多分内部の細胞が硬化しているのかも知れない.

久しぶりに修平兄弟と友人の小池先生とロースとビーフを鎌倉山関内店に食べに行く. 気管と食道との弁の動きが今一でたびたび咽、その度可也の痛みがあったのだが楽しい一時はそんな痛みさえも忘れさせてくれるものである.美味しい料理と友人に感謝!
血液検査の結果を聞きにけいゆう病院耳鼻咽喉科へ出かけた。がん細胞に栄養を喰われていると言うのに血糖値は130、コレステロール値は300、中性脂肪値は282と言う。高脂血症、メタボリックシンドロームとは腹立たしい限りである。月末受ける予定の生検の手術を前に、前回麻酔から醒めた時に呼吸困難を引き起こした事と術後一月余りも舌が腫れたまま痛みと痺れが続いていた事々の不安を言うと、何時もながら担当医は懇切丁寧に一つ一つを噛み砕いて説明してくれ、こちらの無理解や思い過ごしからの不安を取り除いてくれた。実情を知らせる事によって無駄な不安から開放してくれることは病み萎えた心には何よりも効果的な薬である。感謝!
それにしても昨今は癌流行である。辺りはがん患者だらけ、そして皆から聞く治療の苦痛、、、。新聞にがん患者の30%が自殺したとあった。死に急ぎしなくても死ぬのだが私も確かに時々早く決着をつけたい気になる。この鬱陶しい痛みは何とかならないのだろうか!これほどポピュラーとなった癌なのだからそろそろ痛みのない治療方法が開発されても良い様な気がするのだが。最近の歯医者は昔と違って全く痛みなく治療してくれる。痛みを伴う治療は時として拷問に似ている。放射線、抗がん剤、手術、この3種を同時に受けている人の痛みはさぞかしであろう。痛みは生きていることの証などという医師もいるが、痛みは生きる意欲を萎えさせ鬱に陥らせる。四六時中のこの痛みは決して慣れる事は無い。そろそろ痛みの緩和専門医が生まれても良いのだがと思って止まない。
岡本喜八監督の食道がん闘病記をNHKで見た。末期がんと余命とを告げられて奥方が自宅療養の道を選ばれて夫婦で淡々と最後の時を過ごす様は敬服するばかりであった。放射線と抗がん剤、更に食道の再生造作手術をと、どうしても癌が食道を塞いでしまうのでそれらの施術は必要なのだろう。然し末期がんで余命幾ばくも無いことが予見出来ているのにそれしか選択の余地が無いのだろうかと疑念を抱いてしまう。生活の質を確保することと、延命との兼ね合いなのだろうが、それらの治療はかなりの苦痛と体力の衰えを孕む。無論それらの治療をしなければ食事も出来ず、呼吸すらも苦痛になってしまうのかもしれないが、様々な末期がんの方々の闘病記を目にするに連れ、確かに畏敬の念は浮かぶのではあるが痛みの無いまま死に向かうことは叶わぬ事なのだろうかと思ってしまう。前向きに生きるとか、壮絶な戦いを終えたとかは自分の場合はどうにも勘弁してもらいたいのが本音である。もし自分が末期がんであるなら意気地無しでも良いから、痛いのや辛い事から逃げて逃げまくって、叶う事なら麻薬でも吸いながら涎をたらして夢心地で死んで行きたいものである。いよいよ明後日入院で25日には全身麻酔で右の声帯の細胞を採り、放射線照射を受けたがん細胞の死滅の有無を検査するのだが、自分にとってはこんな小さな検査でも苦痛である。現在相変わらず痛む右の喉を更にいじくる事を思うだけでも痛い。前回麻酔から醒めた時の呼吸困難と、舌と喉の持続的な痛みは実際のところ勘弁してもらいたい気持ちである。然し、医師は万全を期して施術してくれるのだし、自分自身の為に放射線治療の結果を知ることは必須のことで、これは通り過ぎなければならない道なのだから当然甘んじて受けるが実際気持ちは嫌である。『いきなり死なないでよ!』と妻が言う。『お別れも何もしていないんだから、もっと一緒に過ごさなければ、、』 前回検査入院して私が癌を告知されてから付きっ切りで看病してくれたものの直ぐさま自分が胃潰瘍になってダウンしてしまった妻には実家に帰ってもらい毎日TV電話で話をしている。 一緒にいて看病したいからと言う妻に一人で闘病したいと意を通して自分の始末を出来る限り自分でしようと決めた。妻の姉が末期のすい臓がんになってその最期を2ヶ月間病室で寝泊りして介護した妻はその余りにも壮絶な死を看取った後、極度の鬱になってしまい、以後8年余り坑鬱剤を服用し続けている。私も彼女が最期を迎える少し前に幾度か病室を訪れ極度の苦痛に呻き身を捩じらせのたうちまわる様を目にしたのだが、それはこの世のものとは思えぬ有様だった。呻いてはベッドから起き上がり、その度に妻がモルヒネの自動注入器のボタンを押してやるのだが、その間隔がどんどん短くなって行く様は地獄であった。大柄で色白の優しげな眼差しのそれは美しい妻の姉が、半身以上にやせ細り真っ黒な肌の般若の形相に変わり果てて、けだものの様なうめき声を上げ幾度も起き上がる様はまさに地獄絵であった。私の家族は父も癌、母も癌、母の兄弟も癌で正に癌家族であるのだからか、兎に角穏やかに死にたい思いが一杯である。自分の癌の責任は当然自分にあるのだから何の文句も言えないのだが、 意気地無しと言われても良い《痛くて苦しみながらの死》からは逃げたいものである。
夫婦のかたち
細胞検査を終えて喉頭がんの告知を受けた後、妻は急に体調不良を訴え、病院で検査の結果急性の胃潰瘍であった。妻の姉がすい臓がんで壮絶な最期を送り、それを二月程看取った妻は悪夢と不眠症に悩まされ、以後極度のうつ病に罹ってしまい坑鬱剤無しでは過ごせなくなった。私は癌の告知を受けて後、食事も満足に取れなくなってしまった妻に実家に帰るように言って、以後自分の始末は全て自分ですることを決め、放射線治療を受けながら家事一般全てを自分でこなしている。無論妻は私の元に戻って自分が 私の面倒を見たいと言い張るのだが、妻が直ぐ様体調を崩す事は自明の事なので、元気にいてくれて私に心配をかけたり、面倒をかけない事だけで十分であると諭して毎日TV電話でお互いの無事を確かめ合っている。私の周囲は夫が大変なときに看病もしないのはけしからんとの思いから、愛情の無い妻とか、また、私が不甲斐無い夫とか非難めいた事を言う者もいるのだが、夫々の夫婦には夫々の歴史があり、また夫々の愛のかたちが在るのであって 、他所からは断じて覗えない事々があるのである。弱い妻は強い私を変わらず頼りにし、強い私の存在をあくまで信じてただ私の無事を祈り続け、私もそれで強くも在れるのである。癌の告知を受け、改めて己が夫婦の歴史を思い起こし、お互いの有態を見つめ直して再認識する良い機会でもあった。面倒を看るとか看られるとかは施す者も受ける者もどちらも負担になるものではなく同等な関係である。若し面倒を看られるだけの障害のある者で自分が在ったなら、自分は自分の存在を負担に思わなければいけないのかを考えれば、この同等であると言う真理が自明の事と理解できよう。
Laryngo Micro Surgery for biopsy
放射線治療が終了して2ヶ月、照射の効果判定のための細胞検査を受けるため入院した。一度3ヶ月ほど前に入院している為、勝手知ったる安易さで手続き等はスムースにこなしたものの病室でのインターネットの環境確保に手間取ってしまい、常備服用する薬を忘れてしまったりギッタンバッコしてしまった。病室は横浜港が一望でき日差しが窓一杯で明るい快適な部屋である。婦長さんに前回麻酔から醒めた折呼吸困難に陥ってしまった旨を伝え、それが唯一の不安であると申し送りをお願いしておいた。現在の体調は相変わらず右側の喉が唾を飲み込む時等に痛みがあり、首を左右に回したり傾けた折右側が攣れて痛む。最近は痰が良く絡んで痰の排出時の痛みに参っている。放射線照射を受けている折は喉が放射線で焼かれ粘膜が乾燥して痰など一切出なかったのだが、治療が終了して粘膜が回復して来るに連れて痰の分泌が始まり、これが喉にへばりつくので咳き込んで出すにはかなりの痛みを伴うので参ってしまう。それと、このところ胃が止まってしまった感があり、常時胃液が胃に満ちている様な感じで、突然単発的なシャックリを食後によくもよおす様になった。
体重63kg、慎重67cm入院時の記録である。
手術無事終了
手術前に担当医師、補助医師及び麻酔医が病室を訪れてくれて再度手術に付いての詳細を説明してくれ、当方の疑問や不安を十分解消してくれたせいか麻酔から醒めた時の呼吸の苦しさは今回は全く無かった。それでも喉に通した器具に圧迫された舌が少し切れて痛むので前回は我慢していたのだったがすぐさま痛み止めの座薬を施してもらったので苦痛無く術後を快適に過ごせた。痛みは我慢するものではないなーっとつくづく思う。看護婦さんも一月に入院した事を覚えてくれており、気心知れた中のように介護してくれたせいか安心して過ごせた。喉に鉄の器具を押し込んで喉を大きく広げた上、マイクロスコープで患部を見ながら施術するため器具で刺激された喉全体が過敏になっていて少しでも温度の違った空気や埃っぽい空気、匂い等少しでも刺激がある空気を吸い込むとむせ込んでしまい肺と喉全体に痛みが弾ける。これが気管支の底の痰が絡んだ状態と相まってすぐ収まらず嫌に成る程苦しむ。ペットボトルの冷たいお茶を身近に置いておき発作を収める様にゆっくり飲む。兎も角手術は穏やかなうちに終わり細胞検査の結果は6月4日出るという。
状態が落ち着いていたので抗生物質を一週間分貰って今回は予定通り早めに退院させてもらった。
放射線治療の後遺症
近頃胃の動きが止まってしまった如く胃液が泡だって喉までいっぱいに満ち満ちてしまっている感じが続いている。胃酸過多という感じではなくただ胃に泡が溜まって膨らんで動かないという感じである。放射線治療の副作用一覧に出ていた胃のもたれというやつなのだろうか?今度放射線科の診察の折聞いてみよう。相変わらず喉は刺激には敏感で喉飴も効かない。痰もよく絡むようになってきてこの咽た時の手の打ち様の無い痛みはかなり参る。放射線治療後の首の右側の付け根から耳にかけての筋肉の痛みは相変わらずである。回復の過程の痛みではあるのだろうがだんだん増してくる痛みは気持ちを疲れさす。
“がんばって”の歌手、ZARDの坂井泉水さんが癌の闘病生活の入院中スロープから落ちて事故死したとニュースにあった。本当に事故死であって欲しいなとの思いが脳裏を掠める。同じ日に政治家と役人が自殺した。病と闘う人のかけがいの無い命への思いとは裏腹に親殺し、子殺し、恋人殺し、横恋慕殺し等々、人はいとも易くに人の命を扱う昨今、彼らに癌の病を分け与えてやりたい気がする。
生検の結果

右側の喉、奥歯、首筋、耳の奥からかけて側頭部に痛みが続いているので本当に癌が消えたのか些か心配だった。少し早めに家を出てゆっくりと病院へ向かった。何時もの様に診察券を受診の予約を確認登録する機械に通してから一階のロビー横のオープン喫茶でエスプレッソを飲んで時間を潰す。昨日妻が中央分離帯に突っ込む自損事故を起こしたと電話してきた。幸い車がクラッシュしただけでハンドルに頭をぶつけてタンコブを作った程度だという。精神的に疲れが出てきているのだろう。時間が15分程前になって診察室の前に移動し、予約時間が少し過ぎた頃名前を呼ばれて診察室にの担当医の椅子に座った。自分でも驚く程淡々としていた。担当医の落ち着きの所為だったのかも知れなかったが『検査の結果がん細胞は見つかりませんでした』と言う彼女の声を穏やかな心で聞いた。『以前細胞を摘出してがん細胞が見つかった場所の二箇所から細胞を摘出しましたががん細胞は有りませんでした。』ホッとした気持ちも意外と無かった。癌を告知されてから漠然と死に向かって居たのがいきなり突き放されてしまった様な気がした。拍子抜けと言うのだろうか、それとも未だ何処かに蠢いているがん細胞を疑っての事なのだろうか、がん細胞が消えた喜びは俄かには浮かび上がっては来なかった。何時もの様に鼻に麻酔液を噴霧してマイクロスコープを通して喉を診て生検の傷の異常の無い事を確認してくれた。次回の診察の予約を一月後に入れ、胃薬を処方してもらったのだが『ありがとうございました』と担当医にお礼を言ったのだが気も漫ろといった感じで何となく自分の癌が呆気なく終わってしまった観がしてならなかった。帰り道先輩に電話すると丁度癌仲間でお茶を飲むところだと言う。先輩は二年前大腸がんから肝臓へ転移して2度の摘出手術後現在抗がん剤を服用中。その友人は7年前下咽頭がんを放射線治療した後遺伝子治療の治験を経て現在多少の後遺症と脱力感と格闘中。二人は私の今回の入院も承知していたのでがん細胞が失せた事を知らせると一応オメデトウを言ってくれた。そして私が現在の痛みを言うと、彼等の壮絶な痛みとの格闘を口を揃えて話し、しばし戦場傷自慢に花が咲いた。確かに様々な方の闘病記を拝見すると私には多分到底耐えられない程の苦痛や様々な困難と格闘されて居り、私はただただ敬服するばかりで、私の今まで及び今の苦痛は確かに甘っちょろいもでしかないのではあるが、それでも私なりにこれが耐え難い程の苦痛なのだったが。今私の周りにはがん仲間が6人居る。一人は肺がんの末期で何とかキノコを食べながらどうせもう駄目だと平気でタバコを吸ってしたいようにしている。後の二人は乳がんで治療中、もう一人は大腸がんが寛解したものの極度の虚脱感から鬱に陥ってしまった者と今日の二人である。皆私も含め60才以上でそれなりの人生を経て来て居るので一様に言う事はがん発症とある程度闘病経過後の虚脱感である。これから何をしたいのか何もなくなってしまったという。死に向かって居た事から舵を生へ向かって切れずに居るのである。伴侶や様々な人々に支えられた事への感謝と今日を生る喜びから何か人や社会に前向きに向かって行こうとか想わないかと問うと今日在る事が生き間違いの気の様な感じに苛まれてならないと言う。私の場合はこの苦痛が思考を後ろ向きにさせるようだが未だ家族を何とかしなければとの思いが否応なく前を向かせてくれる。家に帰って母に癌細胞が検査の結果消滅していたことを告げると『良かったわね』と言うだけで余り大したこととは受け止めていないらしい。彼女も一昨年大腸がんの手術をしたばかりであるし彼女の6人の兄弟のうち4人が癌で亡くなっているのと幾らかボケが始まっているのとが相俟って然程気にしては居なかったのでかえって気が楽である。夕刻妻から電話があり検査結果を告げると一安心であった。
処方してくれた薬も直ぐには胃の状態を改善してはくれず、そして件の右側の痛みで幾度と無く夜中に目が覚めた。癌細胞が消えたというのに全く嫌に成る程の痛みには参る。何時まで続く泥濘ぞ!である。
人はビールをジョッキで飲む時に己が顔を天に向けて喉を広げゴクゴクと直接胃に流し込むが、放射線治療の結果喉に在る気管と食道との弁が柔軟性を失ってしまったのか開閉不全でどんな飲み物でも一旦口腔内に貯めてから下を向いて呑まなくては咽こんでしまう様になった。それと近頃常時痰が喉の底にへばり付いていて呼吸が7〜80%しか出来ていない気がして息苦しさを何時も感じる。ミシミシとした喉の痛み、右の耳の奥から右端の天頂部にかけての痛みも相変わらずである。定期的に喉に絡んだ痰を咳き込んで剥がす痛みは嫌な痛みで心を萎えさせる。これらの痛みは一体何処から来るのだろうか。知ってか知らずにか今までに様々に他人に痛みを与えて来ただろうからそのお返しを受けているのだろうと思えば良いのかも知れないが、かなり参る痛みである。
友人が丁度胆石で貰った痛み止めが有ると言って〔ボルタレン サポ 50mg〕と言う座薬をくれたのでネットで副作用を確認後夜寝る前に試してみた。20分ほどして聞いて来ると言っていたが確かに喉の痛みは失せ、不思議なことに痰の絡みも全く無くなって息苦しささえ失せていた。怖いほどの効き目であったが、ただ、椎間板ヘルニアの痛みは消えなかった。痛みが無いのは良い事である。眠剤より熟睡できた。眠剤は多分鼾をかくのか目覚めると喉に痰が多く溜まっているのと喉に痛みをより多く感じる。いずれにしてもなかなか許してはくれないらしい。
痛みは相変わらずで落雷の中、遂にアイスノンを首の後ろ、右の喉、おでこに乗せて一日中横になっていた。痛み止めは無いのでアスピリンを飲んでじっとTVを見ながら我慢の一日。とにかく自分の今の痛みは他のがん患者や難病の人の闘病の痛みと比べれば屁みたいなものなのだと自分に言い聞かせて時が解決してくれることを待つしかない。以前放射線科で痛みの苦痛を訴えた時、『そんなもんだよ』と簡単に言われてしまったので、今回退院に際して耳鼻咽喉科で痛み止めを出すか聞かれた時、何故か簡単にいらないと断ってしまった事が悔やまれる。しかし、何で痛みが何時までも引かないのだろう?マーこの痛みも生きていることの証ならば仕方が無いのかもしれない。それにしても嫌な痛さで酷く疲れる。
痛みと鼾
夜中自分の鼾で目が覚め、酷く喉の痛みをも感じた事で思いついた。今まで酒を飲みすぎた時しかかかなかった鼾をかいていたのである。それによってもともと糖尿で傷の治りが悪かった上に鼾が声帯を震わせ傷口の治りを更に遅らせているのかも知れない。放射線で荒れた喉の皮膚も鼾のせいでその荒れの回復を遅らせている気がする。痛みはここからきているのだろう。アスピリンを定時に服用してみる。熱っぽかった頭も幾らか納まり、喉の痛みも沈静化してくれたら良いのだが。コムスンの非難がどのTV局でも盛んであった。24時間介護、そして労働集約的な専門技術者のニュービジネスとして高齢化社会における若者の雇用を開拓する維持し得る素晴らしき発想なのだが、ご多分に漏れずビジネス化の成熟前に利潤追求の悪しき面が照射されてしまった。世代間の利益と福祉の好循環が図れる素晴らしい事業であるのだから、きちんとしたビジネスモデルを確立してもらいたいものである。
不断の痛みは思考を拡散させ生きる意欲すら希薄化する。声帯周辺の疼痛、むせ返った時のミシミシと網の目状に広がる喉全体の痛みと右奥歯の歯痛、更に右の耳の奥にかけての疼痛とが酷く疲れさせる。以前から木の棒を飲み込んだ様な喉の硬化と乾燥感が舌の付け根迄硬化してきた感じで液体の飲み込みにかなりの慎重さを要求される。下を向いて口中に一旦液体を溜めそれからその口に含んだ液体をゆっくり飲み込むのだがともすれば気管支へ入るか、驚いたことに鼻に入ってしまうのである。一度同時にむせて錠剤と水とが鼻に入ってしまったことがあってびっくりしたが、とにかく皮膚が硬化して鈍くなっているのだろう。痰は相変わらずのどの底に常駐して呼吸を妨げている。アスピリンを2時間おきに常用し、のど飴を食べ続けている。アイスクリームが一番心地良いのだが血糖値がこれ以上上がるとかえって治りが悪くなってしまいそうで止めた。何時まで続く泥濘ぞ!である。
痰を吐き出すと喉から出血し、何か喉に違和感があるので明日病院へ行くことにした。喉に塊が詰まっている感じで痛みも続いている。癌は簡単な病気でないなーとつくづく思う。胃酸の逆流も相変わらずで、近頃は便秘もひどい。最近判った事なのだが喉を痛めると排便の時に息張れず苦労をする。人の動作は体の全てが連携して成り立っているのだと始めて実感した。糖尿なのにアイスクリームを10本以上も食べてしまう。喉が冷えて気持ち良いのだから止まらない。多分今目の前に麻薬があったら手を出してしまう気がする。それでも好きなワインも飲まずアイスクリームで我慢しているのだから未だ自分の意思は腐ってはいないのだろうか。友人がハワイから漢方薬と鍼の名人を連れてくるとメールがあったが、未だ孤立していない自分がそこにいた。早く病院へ行って処置して貰えば良かったのかも知れない。さすがに我慢はこれまでである。
驚いたことに声帯は真っ赤に爛れて血に塗れていた

出血が止まらず痛みも続いていたので昨日耳鼻咽喉科に電話し予約なしの診察をお願いしたら朝一で来れば診察時間を調整してくれるというので8:20に受付に行った。一時間程待って診察を受けた。何時もの様に鼻からファイバースコープを通し喉を診て貰うと驚いた事に赤く爛れて血に塗れていた。血が出ると咽て咳が出、その咳によってまた出血する悪循環。兎に角苦しく痛い。こんな事は最初の生検を受けてから放射線治療を始めて以来始めての事であった。放射線治療の副作用なのであろうか。炎症や痛みを止める薬と痰を押さえる薬を処方して貰い7月10日に喉のCTを予約した。これで収まってくれれば良いのだが、兎に角癌は癌、一筋縄には行かぬものである。家に帰ると肝臓癌闘病中の先輩から電話があり家の近所の喫茶店で談笑した。一緒に過ごしていた間はかなり収まってはいたのだが、家に帰って夕食のおかゆを食べた後また酷く咽返って今迄以上に多く出血し続けた。喉が荒れているせいか一寸した刺激にも敏感になってしまい、部屋を移っただけでも酷く咽てしまう。薬も直ぐには効かぬもので参った。兎に角収まって欲しいと祈るような気持ちである。
出血と痛みは朝から続いている。朝一で可也の量の出血が喉からあってそのための咳と出血との悪循環が暫く続いた。夜の間に喉に溜まっていたのか可也のどす黒い塊の血が出た後、次第に鮮血に色が変わった。静脈性の出血なのかと思える程暫くはどす黒い色が続き、少量になってから明るい色の血に変わった。逆流性食道炎が併発しているのだろうか、胃の動きが全く無い感がする。遅い朝、バナナを一本食べてから散歩をに出かけ、何時もより半分の距離を歩いてから指圧を受けに行った。首の凝りが酷かったが運動が出来る調子では無いので指圧で凝りを解し且つ脳にアルファ波を発生させて自己機能の回復力を付けたいと思った。しかし今日の青年施術師は何度強くと言っても触っているだけ、更にツボを外してだからイライラが募ってしまった。経験不足なのか本人の感性なのか未熟なまま金を取るプロになるのはやめて欲しいと思った。終わった後、私が彼の首を揉んであげたら感心していたのには二度びっくりであった。夕食はヨーグルトと野菜ジュースだけにした。飲み込むことでまた出血して咽返るのは避けたかった。何とか出血は少量に収まっている。この調子で行けば良いのだがと思っていたら30分程して何回かに分けて嘔吐してしまった。胃が全く動いていない様である。胃癌か食道癌にでもなってしまっているのだろうかとの思いが脳裏を掠める。胃酸を止める薬をもう半月以上の間続けて服用しているのだったが胃からは絶えずあぶくのような物が相変わらず喉に上がって来ている。胃酸過多の酢っぱいものではなく細かい泡状の唾液の塊みたいな液が絶えず上がって来ている。それで声帯もヤラレテイルノナラ何とか救いはあるのだが等と自己診断してみるのだったが、兎に角何も食べずに暫くいる事にした。私の自己回復力が勝つか放射線治療の副作用が勝つのかその内時が教えてくれるのだろうが、癌患者をこうした完治の見えない状態のまま、新たな症状の連続的な出現が知らず知らずに鬱に陥らせてしまうのかも知れないと思った。出血や痛み、嘔吐と便秘、楽しくない毎日である。しかし、様々な障害を抱えながらも健気に生きる人の生や、様々な人の闘病記の吐血や嘔吐や痛みの凄まじさに己が様を比べればマダマダ甘い事を悟って鬱に等なってもいられぬ身である事を自覚する。そしてまた、癌は死に自分を向き合わせたのでは無く、 己の死を身近なものとして見つめる事によって自分の生に真摯に向き合わせてくれるものである事を近頃つくづく思う。
夜中2時間置き暗いに咽返って目が覚めた。咳き込んで吐くものは例のどす黒い血の塊と鮮血、この量も痛みも増して来た感がある。結局朝早く起きる事となって洗面所で一番に血を吐き出し、鏡で己が顔を見ると頬がこけて目がくぼんで周りに隈が出来ていた。薬が効いていないのか悪化するばかりに見え悲観的になってしまう。死ぬなら死ねと運動にジムへ出かけ30分ほどテンションをかけたら案の定咽て血を吐いた。ジャクジーへ入ったら立ち眩みが酷く、血は更に出続けていた。食道か胃からからなのか参ったなーという感じである。胃からは相変わらず胃酸というよりはあぶくがひっきりなしに喉にあがって来ていた。中々決着はつかないものである。
相変わらずものを食べると出血し、痛みは常時続いている。敬ゆう病院へ診察に行き声帯には異常の無いことを確認し、血液検査をした後、10日にCT,12日に胃カメラを取って患部を確認することにした。外から見ても右側の喉仏の下が鶉の玉子ほど腫れていて触ると痛い。これがもし癌であったならもうまもなくお陀仏であろうが、同時に違う場所に癌が出来るのは10万分の一だそうだから先ず違うと思うが、癌だったら大当たりである。兎に角もう疲れたからいち早くお終いにしたい。薬のせいか食べたものを戻してしまうようになった。バナナとヨーグルトを食べていたのだが薄いおかゆにする。友人が仕事の相談があるというので会うとスタッフともども一様に私の顔を見てもうだめだねそこまで痩せては等と言う。痩せ方に驚いて思わず口に出てしまった様子であった。ここ一月で6kg痩せたのだからそう思うのだろうが自分としては60kgまで落としたいと思っているのだが見る人には癌で痩せていく私の様には驚きを隠せないのであろう。友人からメールがあって友達がすい臓がんになったと言うので面会に行って来ると記されてあった。兎に角周りは癌だらけである。ざっと数えても10人は下らない。癌は孤独な闘いである。周りの人間はただ見守るだけである。そして患者には時としてそんな周囲の感情さえ重く耐え難い時さえある。妻がそばにいて喧嘩をしながらでも面倒を見たいと言う。どうせ直ぐに彼女のことだから体調を崩して私が疲れなければならないのは目に見えているので頑なに断った。夕べは極薄いおかゆのおかげで出血も一時的で、食事も戻すことも無くハルシオンを一錠のんで6時間ほどぐっすり寝た。しかし喉の痛みで目覚めるのは相変わらずで昨日の残りのおかゆをレンジで温めて食べ、処方された薬と痛み止めを飲んだ。昨日は昼食を戻したので薬を一回抜いたのだったが出血したのでおかゆにしてきちんと処方箋薬を服用したら小康状態を保っている。兎に角食って歩こう。取り敢えず今しばらくは前に進もう。
かくしてがん患者は死す、、
乳製品を受け付けなくなった。食べても全てを吐いてしまうのでヨウグルトも止めた。アイスクリームが喉に心地良かったのだったがやはり吐いてしまうのでただの氷に変えた。薬の飲みすぎで胃がやられているのかも知れなかった。何でも良い風には向かわないものだ。この所むせ返った後の咳き込み時の出血が酷くなり、喉の腫れも飲み物の飲み込みすら邪魔するほどとなってしまった。良い方向へでは無く全てが悪い方向へ向かっている様な気がする。夕方風呂から出ると突然激しく咳き込み出血が気管支に溢れ出て息が出来ない程息苦しくなってあわてて水を飲み、気を落ち着け、咳き込みを我慢しようと試みるのだが更に咳き込みが激しくなって血が吹き出した。血が気管支にへばりつき、見る見るうちに喉の底に溢れ出るのが感じられるほどである。『斯くしてがん患者は死す、、か!』っとの想いが脳裏に広がっていく。食事も何か食べると出血するのでプリンや良く煮込んだうどんだけにする。だんだん食べられなくなって体力が落ち、そして気力が落ちて沈黙が続き、そして終焉を迎えるのかも知れないが、咽て咳き込み血を吐いて苦しむのは勘弁である。麻薬はがん患者のためにふんだんに用意されてしかるべきであ等と思ってしまう。
残念ながら
CTを撮った直後技師は担当医に連絡して更なる検査をする段取りを取った。甲状腺近くにかなりの大きさで気道を圧迫している腫瘍があった。一月も経たないうちにいきなり大きな成長の早い癌が出来てCTで見ると気道はほんの少ししか開いていなかった。年配の 医師は多分この科の部長なのだろうか、CT画像を見てラジカルだから早いと言う。どのくらい生きるのかと問うと一月は持たないと言う。どんな死に方かと更に問うと痛みにのた打ち回っての窒息死だと言う。太い動脈に絡んでいるので手術も不可能との事。良い形の死に方は無いかと言うと全く無いという。癌の痛みは酷いからと言う。モルヒネで寝かせてもらったまま死ねないのかと言うと出来ないと言う。上手く夜寝ている間にでも窒息すれば良いのだがと言う。自殺以外死に方も選べないのである。安直に死ぬにはフイリッピンにでも行ってヒットマンを雇うしかないのだろうか。それにしても窒息死は参る。時間があまり無いので色々な物を整理するのに大変である。母や妻や娘や友人の生活を考えてやらなければならない。自分の持ち物を整理するのも一苦労である。61年の残滓はあまりにも多い。癌をやつけるのには自分諸共死ぬしかなかったとは。友人達ともう少し歓談をしたかった気がするがそれも最早詮無き事。自分は意気地無しだから凄まじく闘病し続け討ち死にする覚悟も度胸も無い。早く楽に死にたい。死のプランを一生懸命考えて、のた打ち回る窒息死から何とか逃げよう。一体どんな死に方が残されているのだろうか?家族がショックを受けず且つ自分が楽に死ぬには。中々思い浮かばない。病院のベッドでモルヒネを点滴されたまま夢うつつで死ねれば本当は一番いいのに、それは許されていないと言う。外国へ行って違法に死ぬしかないのだろうか。兎に角参った。吐血して苦しかったら遠慮しないで直ぐ救急車で来なさいと担当医師と看護婦さんが優しく言ってくれた。何と良い人達なんだろう。
胃カメラ
食道にカメラを突っ込まれて吐血し呼吸が出来なくなる恐れを十分に話して万全の措置を取ってもらい検査に臨んだ. 喉の麻酔をした後、ベッドに横になり血圧を測りながら鎮静剤を注入したあと施術されたのであったがベテランの技師は何事も無くスムースに全てを終わらせてくれた. 食事の度の痛みと出血からかなり食道がやられていると思いきや、食道、胃共何とも無いとの事である. 30分程横になって休んでから食道と胃が無事ならてんぷらをと行き付けの天富へてんぷらを食べに行った. 事情を話すとゆっくり好きなものを揚げてくれ時間をかけて全て平らげた.神は最後の楽しみだけは残してくれたようであった..死ぬまでに好きなものをもう一度食べて逝こうと妻も勧めてくれた. 友人の事務所に挨拶めぐりを元気なうちにすることにした.道々昨日の年配の医師とのやり取りを思い浮かべ た。あの医師は冷徹なほど非常に率直に現状と今後を話してくれた。確実な情報を得る事で自分の残された少ない人生をプラン出来るのであるから彼には感謝しなければならない。モルヒネを使っての夢心地の死は拒否されたが、終末は管を入れらられてここで迎えるしかないかもしれないと思った。
死に方の選択
どんな死に方が残されているのかを先輩と話した。先輩も大腸がん手術後肝臓に転移し二度肝臓の摘出手術をしている。先輩はただただ医者にお任せで余分なことは考えないようにしているとの事であった。私の場合は先日かなり切迫している事を告げられたのでプランした死に方をしたいと希望している。出来得る事ならハワイで娘の結婚式をして、ついでに好きなイタリヤでも行って上手いものを食べて、帰ってから喉にパイプを入れて死を待つといった段取りが出来ればいいのだがと思うが、喉の状態を思うとかなり切迫した状況であるのが感じられる。昨日も風呂に入る前に咳き込んで出血し、今朝起きてみると喉の腫れが更に大きくなった感じがつばの飲み込み時に感じられた。明日娘がアメリカから帰国するのだが、上手く段取り良く事が運べる時間的余裕が作れれば理想なのだが、、、。それにしても死に方が選べないのは自立した人間として情けない限りである。良くTVニュースで耳にしたことではあるが患者の家族も酷いものである。苦しみから救ってくれと担当医師に哀願し、延命措置を外してもらいながら患者の死後人道的見地から医院内で問題になると担当医を守らないで告訴に協力してしまう。恩をあだで返されて人生を棒に振った医師が多く出てはうっかり医師も痛みの緩和措置すら取れなくなってしまうだろう。私は殺してくれとは頼まないが、痛みや苦しみを我慢する時間を長引かせるの だけは止めてもらいたいと願うのである。鎮痛剤を投与し続け静かに死を迎えたいだけである。チュュウブだらけでベッドの上でもがき苦しみ死を待つ友人を幾人も見てきたのであのような死は避けたいと切に願うのである。
Chemotherapy
今後の方針を決めるため妻とともに病院へ行った。今朝の喉の状態は昨日より腫瘍が腫れているのが外見からも嚥下時の感触からも容易に感じられる程であった。本当に進行は早い。担当医師と部長らしき医師が一昨日と同じくCT画像を前に現状と今後 の進捗状況をを妻を前に説明してくれた。今回の細胞検査の結果は同じ場所に当初の癌と同じ非常に進行度の早い巨大な扁平上皮癌が内側に出来、既に手の施しようが無い状態であることを妻は改めて知った。私は娘の結婚式にハワイにでも一週間程出かけてそれから入院して抗がん剤の投与を受ける時間的余裕の見通しを問うたが 、状況はいたって切迫している事が再認識できた。一度入院したらそれっきりになるかも知れなかったが妻は治療を優先することを望んだ。抗がん剤でも治癒は望めず、効いたとしても死期を幾らか遅らせる程度である由。来週の水曜日に入院し、抗がん剤に耐えられる腎臓かどうかを検査し、次の月曜日から120時間連続で抗がん剤を点滴投与する予定を決めた。抗がん剤治療は副作用で手術以上にきついと言う。それで効かなかったら気管を切開して気道を確保し、モルヒネで痛みを緩和しながら死期を待つと言う選択を了承した。あまりモルヒネが痛みに効かなかった過去の体験を話し 、出来る事ならあまり苦しまず逝きたい旨をお願いした。死に方がこれで決まった。この病院で最期を向かえる旨を医師に告げた。率直な情報提供を感謝して妻と友人と診察室を後にした。市販の痛み止めが効かなくなっていたので痛み止めや出血防止等の薬を処方して貰い 、友人としゃぶしゃぶを食べに行った。あれほど薄い柔らかな肉も既に嚥下が困難となってしまった。昨日より今日、今朝より夕方と刻々と状況は進化している。何れにせよ死期は非常に早い。 再来週の抗がん剤投与まで果たして持つのだろうかとも思えるほどである。色々な準備は殆ど出来ない。極親しい身近の友人に別れの挨拶や形見分けだけ済ませられるかかどうかであった。入院に際して気道の確保から栄養剤の注入によって何時までも命を長引かせられてはたまらないのでその打ち合わせ確認だけが残った大仕事になった。
別れ
極親しい友人と大急ぎで別れをする。交通事故や不慮の死では無いので幾ら切迫はしていても皆に別れを告げられるのは幸いである。がいきなり別れを告げられた友の気持ちを忖度すればこれはまたそれで酷な仕打ちである。小学校からの幼馴染は信じられぬと泣きじゃくり、やがてお前らしいな!と納得してくれた。海の友が嵐の中、我家に来てくれ娘もちょうど帰国したので皆で幼馴染の焼肉屋に行った。体調はすこぶる悪く何も食べられぬと思って行ったのだったがロースやカルビ、ミノ、ホルモン等全てを平らげた。友人との歓談は直ぐ死ぬことすら忘れて昔話に花が咲き別れの時まで笑いこけた。Eメールで知らせた各国の友人達からも思い思いの便りが来ていた一様に私のこれからの死が承服しがたいようであった。娘は私が病んでからか思いの外痩せてしまっていたのが痛ましかったがなるべく話はしなかった。無言の会話こそ多くを語り合える気がした。
Parting and Talisman
台風が通過すれど与太の残る今日一日であった。昨日調子が小康を得ていたのに早朝には息苦しさで目覚めなければならなかった。口座引き落としの変更手続き等の指示や様々な手続き的な事々を妻に教えるには余りにも時間が無さ過ぎた。外国人であったため全て煩雑なことは私が為し手しまった付けがこんなところで来るとは、妻への愛情が反って仇となってしまった。妻は私がいなければ何もわからないのである。
夕方母も交えて最後の晩餐の積りで慎ましくそばを食べに行った。母は幸い何事も多くを理解していないようであった。何かにつけ涙ぐんだり嗚咽を押し殺す妻と娘。そばを口中にためモグモグと細かく砕いては本の少量しか飲み込めぬ自分。それでも時は静かに流れていく。家に帰ると中身の変形な 観のある封書が届いていた。見れば先輩からである。驚いた事に美しい自筆の絵と日陰神社のお守りが添えてあった!何と言う心のこもった封書なのだろうか!生まれて初めて人の恩を限り無く受けてしまった。ともに病む身にして尚他を気遣う心の大きさにただただ感謝するばかりであった。
ウロタエルナ!
寝就かれぬまま2時頃また咽返すと咳き込んで血が出た。喉から奥歯、更に右胸の脇の下近くが痛んでいたので妻に幾度も私が夕方分の薬を飲見忘れていないかどうかを確認した。寝る姿勢に因って椎甲板ヘルニアから来る痛みがかなり違うので寝付くまでに何度も寝返りを打つ必要があったのだったが、近頃は喉の腫瘍が気管を塞いだり神経を余り刺激しない位置を確認しながら最適な姿勢を探る作業に費やされる。結局背中に枕を数個置き座位に近い姿勢をとったりして4時近くまで悶々とした時間を余儀なくされ、上手くいけば疲労が束の間の眠りを誘う。喉の腫瘍が頚動脈を波打たせ、痛みは出血を感じさせた。喉には既に親指大の違和感が感じられる。両足が靴下を履いたように冷たく痺れる。がん細胞は一時も休まず実に働き者である。私の気力とのせめぎ合いなのだろうが、夜中の発作的な症状の吸収にはうろたえてしまう。痛くとも、息苦しくとも、辛苦の血を見ようとも、時の移ろいに身を任せ 癌細胞に己が身を喰わせるしかないことを悟るべきなのだが、血が止まり、咳き込みが収まるまではうろたえてしまう自身が情けない。妻が何も出来ないことを悲しみ、私が悪いと言い続ければ尚更である。有終の美などは縁の遠い死を迎えなければならないのかもしれないが、自分らしき死に容を努めよう。
昨晩調子が悪かったが朝には小休止なのか小康を得たので娘と妻の三人で近くのモールへ散歩がてら出かけた。実は上の姉が会いに来ると電話があったので会うのが嫌だったので急遽出かけたのでもあった。海の日の休日と言うことで人で賑わっていて昼飯を蕎麦でもと思ったのだが喫茶店でアイスティーだけ飲んだ。誰しも食欲が無かった。喉が大分詰まってきていて痛みも増したので帰りがてら駐車場で薬を飲んだ。小さなカプセルが水を幾ら一歩に飲んでも下へ行かず、咳き込んで血とともに吐き出してしまった。『クッソ!』明日海の仲間とのお別れの会があるのに!っとの思いが怒りとなって原に満ちた。パニクらずに兎に角深呼吸をゆっくり繰り返して咳き込みの空気を鼻へと散らした。最近覚えた喉の空気圧を抜くコツであった。家に帰ると妻が姉が母と2階で話し込んでいると言うので仕方なく会った。20年来C肝炎と闘い最近すい臓がんと闘っているのではあったが思いの外元気であった。死に方を選べないのよ!と言いながら前向きに生きている。私の場合抗がん剤の注入がさしたる効果が見られない場合、痛みの緩和治療を受けながら癌が気道を塞ぐのを待つか、気道に管を挿入して先ず呼吸気を確保し癌細胞が他臓器を侵食して機能不全にさせて全身機能を止めるのを待つかの選択となる。何れにしてもゆっくりした絞首刑である。自分がウロタエズ粛々とその時間を過ごせるか、家族に変なトラウマを残さずに逝ける不安である。状態が落ち着いたので友人がくれたマンゴーと桃と姉がくれたプッディングを昼食に摂って、娘が作ってくれたマッシュルームのクリームソース仕立てのニョッキを夕食に食べて薬をカプセルから出して飲んだ。夜の12時にもう一度余分に薬を飲んでベッドに横になった。
昨夜は食事と薬が効いたのかかなり幾度も深い眠りにつけた。何とか今日のお別れ会には参加できそうである。神は未だ見放しては居ないのだろうか?有難い事である。思いがけない友人からのEメールに返事を書いたり、身辺整理のための書類等妻に説明して大忙し、娘の婚約者が急遽パスポートを取って終末に日本へ来ると言う。娘は何とかバージンロードを私に連れられて歩きたいと言うのだが、、。長年秘書を務めてくれた友人に全てを託す書類を作成する。彼は身内以上の身内で、私が突然去るので気が動転しているのだが最後まで良くやってくれている。私が最後まで面倒を見てやれぬことになってしまい申し訳なさが一杯である。交通事故死と違い皆へさようならを言って逝けるのだから感謝しなければならないのかもしれない。癌をなめたらあかん!と誰かが言っていたことがふっと脳裏をよぎる。発見が初期でわずか2mの癌だったことと、自分が 生半可の知識で放射線治療を他病院で受けたのがいけなかったのか?それらしきことを知人に言われたが、自分の選択が間違っていたのか一度その経過を死ぬまでに医師に聞いてみようとも思うが、 自分の癌細胞に直接尋ねる事が出来ない以上本当のところははっきりしないだろう。今日は何とかのどの調子がお別れ会まで持って欲しいのと、友人のために傘が要らぬように天候が持って欲しいと祈るばかりである。
Last Supper Parting
司法書士のところに行き残務整理を依頼し海の仲間たちのお別れの会に出かけた。行きつけの鮨店四谷のつくものご亭主がもう7,8年も行っていないのに貸切にしてくれて、海の仲間やごく身近のハワイのクラスメートが集ってくれた。皆信じられないと言う。つくものご亭主が本マグロの カマシタを煮付けてくれたり、トロの身を筋に沿って包丁を入れて筋を除いたマグロを小指大の小ぶりに握ってくれたり、ひらめの薄作り、鰹、赤貝、みるがい、等を全てさいころ大に造ってくれた りしたので、思いがけなく全て平らげることが出来た。親しい友との語らいはついつい癌のことを忘れさせるほどである。家に帰るとハワイのクラスメートたちからの寄せ書きが届けられた。励まし の便りは懐かしい思い出とともに何よりのプレゼントであった。もう直ぐ二河白道を歩み始める身には何を支えに最後まで歩み続けられるのかわからないが、多くの思い出が無常の闇を照らし続けてくれることは確かである。多くの友に感謝を胸にして! 私は海狩人であるから南十字星と北斗 七星の間を彷徨い続けることだろう。夜、天空の星たちの中に私の光が懐かしさに瞬くはずである! 熱き感謝と共に、有難う!

死闘への序曲
慌ただしく入院後早2日が過ぎた。尿検査や血液検査、聴覚検査を抗がん剤治療のため受けた。状況は日に日に悪化している。食物の飲み込める量、喉を通過可能な量が既に小指の先程となり、痛み止めも夜中に飲むようになり、更に麻薬系の物に変えてもらうことにした。これからが正念場である。これからは癌との死闘である。医師を介在人として又時には医師に 手術と言う助太刀を頼むかもしれないが、手術不能の癌である以上あくまでも癌と私だけの闘いである。出来ることなら妻や娘にはこの修羅場は見せたくない。どのような死に方が妻や娘にトラウマを残さずにすむのかを闘う上で考え無ければならない。多くの友人から思いがけない励ましの便りがあった。ありがたいことである。
既にゴングは鳴らされ私は病室と言うリングに立った。私の武器は我慢強さ、どんなに打ちのめされても最後まで立ち尽くすだけである。
善人なおもて往生す 況や悪人をや 『往生要集』
3名の医師と看護婦及び婦長さんを交えての治療方針の説明が夕刻5時から開かれた。それに先立って私は入院に際して延命治療を拒否するLiving Willを書き、家族と言えども私のこの意志を拒否する権利を有しない旨記載し妻と娘に見せたのであったが、妻と娘は頑なにそれを望まず諍いに似た時間が在った。担当部長から抗がん剤の名称や副作用の説明があり、2種混合を最初にやって効きが悪かったらもう一種髪の毛が抜ける程の強い副作用のある抗がん剤を混ぜると言うので、 どうせなら体力があって強い副作用に耐えられるうちに最初から強いのをやって欲しい旨伝えた。それから私は自分が放射線治療を他病院で受けた結果が再発の発見や対応に遅れを取って今日の状況を迎えたのかの確認だけして後は延命のための延命措置だけは取らないでくれるようにだけ頼んで詳細を打ち合わせるのを次回にお願いする雰囲気を合えて造った。呼吸困難となった場合の気管切開の施術の有無やとそれに付随しての栄養の取り方等々について詳細に状況を聞いて何をやり、何をやらないか、その結果どのような症状を自分が引き受けなければならないかを事前に聞いて詳細に決めて腹をくくって置きたかったのだったが、涙ぐむ妻と娘を横にしてはどんな死に方になるのかは詳細に医師も説明しかねるだろうし私も聞きずらかった。聡明な医師も何かを察してか気管切開等についてはまたっと言ってその場を引き取った。後日医師に私だけ話す時間を持ってもらう事を願った。 普段100程の最高血圧が生まれて初めて朝から148を打った。入院してから血圧が高止まりを続けている。既に先頭モードに入ってアドレナリンの分泌が高まっているのだろうか?痛みに耐えていると血圧は上がるという。何れにせよ闘いは開始された。
A wedding and Prefuneral
友人のダンデザインシステム鰍フ子女真帆さんが奔走してくれて急遽娘の結婚式が極身内だけで開かれた. 有難い事である!私にも家族にもいい思い出となるでしょう.私は自分の命の引継ぎのセレモニーと皆への感謝とお別れを意味して式に臨むことが出来た.今日から抗がん剤を始めるので大急ぎで式に参加し病院へ駆け戻りシャワーを浴びてから4時から点滴を始めた.有難さの感激の覚めやらぬ中ベッドに横たわりプラスチックの針を静脈に通された. 何と素晴らしい私の人生なのだろうか!人にか謝しながらその時を待って横たわれるのだから!感謝!
幽鬼となって